その5
題字 書家・新舟律子

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26. 「葉書の木」とも呼ばれる、松蔭寺のタラヨウ

枝の下部は垣根風に剪定してあります
名 称 横浜市指定名木古木
松蔭寺のタラヨウ
樹種 モチノキ科
モチノキ属
樹齢&
大きさ
樹齢180年 幹周り2.4b 樹高約12b
所在地 横浜市鶴見区東寺尾1-18-1 松蔭寺境内
行き方 横浜線「大口駅」下車、東口から徒歩17分

タラヨウの葉の裏に先の尖ったもので書くと、こんなふうに
生い立ち&
見どころ
 松蔭寺は東寺尾の丘の上にあり、寺の周囲から望む鶴見の海岸方面の眺めが素晴らしい。タラヨウ(多羅葉)は松蔭寺の山門をくぐった右手、本堂前にありました。
 
 タラヨウは、葉が厚く艶があり、大きなもので15a以上のものがあります。左の写真のように、葉の裏を先の尖ったもの、箸の先みたいなもので傷つけると文字が書けます。むかし、インドの寺院では葉に経文を書いた多羅樹(ウチワヤシ)に例えたのが名前の由来だそうです。
 
 日本のお寺でもこの多羅樹(ウチワヤシ)にもっとも性質が似た木として植え、その名をタラヨウ(多羅葉)としたようです。
 
 今まで数ヵ所のお寺で見たタラヨウでは、松蔭寺のこの木が樹齢、樹勢、大きさとも、比較にならないほど立派です。

 近年日本の郵便局が民営化され、“親しまれる郵便局”をめざしシンボルツリーとしてタラヨウを「葉書の木」イコール「郵便局の木」だとして各地の郵便局で植えています。この木、タラヨウがこうして一躍注目され、多くの人に親しまれ、植えられることは緑化につながり、大変結構なことです。

 詳しくは、当ホームページ「木花-World」のタラヨウ第9ページNO.10、北澤美代子さんの文をお読みください。
 タラヨウの雌花は「木花−world」18ページNO.39に載っています。
取材・撮影 岩田忠利 撮影年月 2009年8月18日


27. 樹勢、樹形とも素晴らしい。建功寺のクスノキ


幹の左側面は1.5倍ほどの太さです。幹の太さを測る案内の僧侶
名 称 横浜市指定名木古木
建功寺のクスノキ
樹種 クスノキ科
クスノキ属
樹齢&
大きさ
樹齢220年  樹高30b 幹周り6b
所在地 横浜市鶴見区馬場1-2-1
行き方 東横線「菊名駅」東口駅前から臨港バス鶴見駅西口行きで東高校入り口下車、徒歩4分

3本の木が根元で合体、大きな枝を左右バランスよく伸ばす
生い立ち&
見どころ
 横浜市内の曹洞宗のお寺では境内の広さは、総本山の鶴見総持寺に次ぐもの。境内には樹木がうっそうと茂り、横浜市指定名木古木がイチョウ、ケヤキ、ヒイラギ、ヤマザクラ、エノキと多く、どこにどの木があるのか、さっぱり分かりません。
 それを若い僧侶の方が一本一本案内、丁寧に説明くださいました。

 なかでもクスノキは本堂左手にあり、その甍の高さをはるかに凌ぎ、そびえています。 クスノキは成長が早く、大木になりやすく、日本の巨木リストの上位を占めています。
 
 このクスノキの幹の太さを測るため案内の僧侶の方に両手を広げてもらいましたが、この木の幹は左側面が正面の1.5倍ほどの太さで、写真で見るよりも太いのです。
 大きな枝を左右にバランスよく伸ばした樹の姿はその樹勢とともに、素晴らしいクスノキです。  
取材・撮影 岩田忠利 撮影年月 2009年8月18日


28. アカガシの古木が並ぶ下田神社跡地

中央の石段の左の木。その左奥にもう一本、横浜市指定名木古木アカガシは樹齢270年です
名 称 横浜市指定名木古木
下田神社跡のアカガシ
樹種 ブナ科
コナラ属
樹齢&
大きさ
樹齢約290年  樹高約15b 幹周り2.5b
所在地 横浜市港北区下田町6-3-39 下田神社跡地 下田町公民館前
行き方 東横線「日吉駅」前から東急バスサンヴァリエ日吉行きで下田小前下車、徒歩1分

根元から3bほどから太い枝が何本も枝分かれしています
生い立ち&
見どころ
 当編集室がある東横線日吉駅前。朝、事務所のカギを開け、仕事前にバイクで5分ほどひとっ走り、住宅街の中をグルグル探し回っていたら、見かねた女性の方が「どこへ行かれるのですか? あ、そう、大きな木なら、そこですよ」。下田神社を移築した跡地が下田町公民館と子どもの遊び場になっていて、その前にアカガシの木が2本ありました。

 高さ2bほどの金網のフェンスで仕切られ、アカガシに近寄れません。金網の網目の間にカメラを入れ、なんとかシャッターを切りました。
 
 アカガシは西南日本の山地に多く、比較的標高の高い所でも見られるそうです。葉先が鋭く尖っているのが特徴の一つ。5〜6月に咲く花は、枝から垂れ下がる黄色味の雄花序。実のドングリは翌年の秋に熟します。材は赤みがあるのが「アカガシ」の名前の由来。

 日ごろ見慣れていた大木でもカメラを通して見る姿は、ひと味違う一面を見せてくれます。あなたも「名木古木」や「保存樹」といった表示を見かけたら、写真を撮ってこちらへ送ってみてください。

 追伸 上記をお読みになった下田町の塩田さんから下田町ホームページの掲載記事「下田町の名木古木」と同町内の枝垂れ梅の写真と情報が送られてきました。どうぞご覧ください!
取材・撮影 岩田忠利 撮影年月 2009年8月20日


29.二度の丸焼けから再生、「火防のイチョウ」と尊ばれる

根元から天辺の枝まで火傷の痕が痛々しい。左側の皮一枚から枝を伸ばし、秋はギンナンをたくさんつける
名 称 横浜市指定名木古木
東神奈川熊野神社
ご神木
イチョウ
樹種 イチョウ科
樹齢&
大きさ
樹齢370年  樹高約20b 幹周り4b
所在地 横浜市神奈川区東神奈川1-1-2 東神奈川熊野神社境内
行き方 横浜線「東神奈川駅」下車、東口から徒歩5分
根元から幹は焼け焦げて空洞。樹皮と樹皮から伸びた枝が地下の養分を吸い上げ、再起したようです

本殿上に伸びる枝先も焼け焦げています
生い立ち&
見どころ
 東神奈川熊野神社は東海道神奈川宿にあり、慶応4年(明治元年。1868年)正月、“神奈川の大火”に見舞われました。東海道屈指の賑わいを見せていた神奈川宿は木造の建物が密集していたため、神奈川宿から新宿村・西子安村・東子安村へと飛び火し、神社仏閣など貴重な文化財を焼失しました。
 このとき、このご神木のイチョウも黒焦げになり、再起不能と思われました。その数年後、芽を吹き出し、徐々に枝葉を広げて生気を取り戻し、氏子らを喜ばせたのでした。
 
 それから77年・・・。昭和20年(1945年)5月29日昼間、米軍のB-29爆撃機101機による横浜市街地の空襲、いわゆる“横浜大空襲”です。市街地は火の海と化し、焼夷弾攻撃による死者は約8千〜1万人、建物も植物もガレキの山に・・・。

 東神奈川熊野神社の建物は、すべて焼失。焼け残ったのは鳥居・灯篭・狛犬など石の建造物だけ。そのうえ、境内を進駐軍が接収。すっかり元気を取り戻していたイチョウの木も焼失してしまいました。

 それから、またもや翌年の春、数日雨が降り続き晴れ上がった朝、黒焦げの幹の周りから次々芽を吹き出したのです。緑は地表の雑草とイチョウの新芽だけ・・・。雨が降るたび、芽は大きくなり、枝となり、葉となり、年毎にイチョウ本来の姿に成長していったのでした。

 この逞しいイチョウの生命力に人々は、いつしか「火防(ひぶせ)のイチョウ」と呼び、参詣のたび、尊敬と親しみをもって見上げているのです。
取材・撮影 岩田忠利 撮影年月 2009年8月21日


30. 江戸・明治期、灯台の役目を果たす「龍頭の松」

松の後方は海(現横浜港)。右下の浜は幕府お抱えの漁港の一つ、子安浜。写真は枯れかかり、切り倒す前、明治末期撮影
名 称 江戸〜明治期の名木
浦島丘の龍頭の松
樹種 マツ科
樹齢&
大きさ
昭和12年刊「神奈川区史によれば  樹高2丈余 幹周り1丈5尺
所在地 現在地は横浜市神奈川区浦島丘 
行き方 東横線「東白楽駅」下車。徒歩14分。またはJR横浜線「大口駅」下車、西口から徒歩15分
見どころ  江戸・明治時代、子安浜の漁師たちは昼間この大きな松の木を目印に漁場に出て、夜はこの木に懸けた灯篭を目標に帰ってきたと言われています。海上安全のため灯篭を灯しつづけたのは、子安の松井某や神奈川宿新町の老舗の亭主や浦島寺の僧だったと伝えられています。
 この龍頭の松は、江戸とその近郊の名所を描いた『江戸名所図絵』(天保7年<1836年>)に載っている名木で、以下のように紹介されています。

 「寺の後の方、山の頂にあり。伝へいふ、この樹上今も時として龍燈の懸かることあり。当寺の本尊は龍宮相承の霊像なれば、その証としてかくの如し」。
 
 この龍頭の松が立つ場所は現在「神奈川区浦島丘」という地名ですが、この松の木の南に浦島観音と浦島・乙姫の二神像とともに、浦島太郎の物語が残っている浦島院観福寿寺というお寺がありました。しかし、この寺は明治初年の火災で廃寺となり、浦島伝説にまつわる資料の一部は現在慶運寺(神奈川区神奈川本町18-2)に移され、“現在の浦島寺”はこちらとなっています。

 浦島伝説は全国各地にありますが、神奈川区浦島丘の伝説はロマンの上に事実が裏付けられているので、たいへん興味深い話です。とくに神奈川の浦島伝説にこの龍頭の松が登場するので、いっそう現実味を帯びてきます。

 横浜市立浦島丘中学校のホームページに「浦島太郎伝説」が掲載されています。ここに以下一部引用させていただきましょう。その前に、浦島太郎が子どもたちにいじめられていた亀を助けたお礼に龍宮城へ招かれたくだりと、ふるさとと父母恋しさに別れを告げて帰国し乙姫から土産に貰った玉手箱を開けると白煙が立ち上り、太郎が白髪の老人に・・・のくだりは、皆さんご存じのとおり。浦島丘中学校のホームページには以下の子安浜の浦島伝説がこう紹介されています。

 「太郎が龍宮にいる間、太郎の父は子恋の思いで亡くなった。この父の気持ちを哀れんだ漁師たちは、三浦の里に近い武蔵国の白幡の海が見える丘に太郎の父の墓をまつった。この父の墓のことを知った太郎は、丹後を後にしてようやく子安の浜にたどりつく。父の墓所を探す太郎に、乙姫は墓がある丘の松の枝に明かりを照らし、その在り処を教える。太郎はその明かりに導かれて丘に登り、庵を結んで父の菩薩を弔った」
 
 この龍頭の松については神奈川区役所が昭和12年刊と昭和52年刊「神奈川区史」で取り上げていますが、現物の写真が無くイラストを添えて説明しています。いわば“幻の松”、古老による“伝承の松”でした。

 ところが、平成12年8月のことでした。私は写真集『わが町の昔と今』シリーズ第3巻「神奈川区編」の編集で昔の写真探しに旧家を訪ね歩いていました。こちらの期待どおりの写真が見つからず、頭髪が焦げるような暑さでもあり、帰宅しようかと弱音を吐きそうな自分を戒め、もう一軒、南白幡の旧家・増田家のインターホンを鳴らしました。門を開けて現れたのは初老の紳士。

 開口一番「うちには90歳過ぎの母がいまして、いつも母が家宝のように大事にしている写真ならありますが・・・」。応接間に招じられ、奥から出て来られた品の良い老婦人に本発行の趣旨を話すと、また奥の部屋から包みを抱えて来られ、見せてくださったのが、この写真・・・。和紙に包まれ、中に墨で黒々と「龍頭の松」と書かれています。「神奈川区史」には「竜灯の松」と書かれていますが、私は増田さんのとおり、私の本にも「龍頭の松」で紹介させていただきました。                    
                                           文・岩田忠利
写真提供 増田ハル 掲載誌 写真集「わが町の昔と今」第3巻「神奈川区編」から転載


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