根元から幹は焼け焦げて空洞。樹皮と樹皮から伸びた枝が地下の養分を吸い上げ、再起したようです |

本殿上に伸びる枝先も焼け焦げています |
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生い立ち&
見どころ |
東神奈川熊野神社は東海道神奈川宿にあり、慶応4年(明治元年。1868年)正月、“神奈川の大火”に見舞われました。東海道屈指の賑わいを見せていた神奈川宿は木造の建物が密集していたため、神奈川宿から新宿村・西子安村・東子安村へと飛び火し、神社仏閣など貴重な文化財を焼失しました。
このとき、このご神木のイチョウも黒焦げになり、再起不能と思われました。その数年後、芽を吹き出し、徐々に枝葉を広げて生気を取り戻し、氏子らを喜ばせたのでした。
それから77年・・・。昭和20年(1945年)5月29日昼間、米軍のB-29爆撃機101機による横浜市街地の空襲、いわゆる“横浜大空襲”です。市街地は火の海と化し、焼夷弾攻撃による死者は約8千〜1万人、建物も植物もガレキの山に・・・。
東神奈川熊野神社の建物は、すべて焼失。焼け残ったのは鳥居・灯篭・狛犬など石の建造物だけ。そのうえ、境内を進駐軍が接収。すっかり元気を取り戻していたイチョウの木も焼失してしまいました。
それから、またもや翌年の春、数日雨が降り続き晴れ上がった朝、黒焦げの幹の周りから次々芽を吹き出したのです。緑は地表の雑草とイチョウの新芽だけ・・・。雨が降るたび、芽は大きくなり、枝となり、葉となり、年毎にイチョウ本来の姿に成長していったのでした。
この逞しいイチョウの生命力に人々は、いつしか「火防(ひぶせ)のイチョウ」と呼び、参詣のたび、尊敬と親しみをもって見上げているのです。 |