編集:岩田忠利 / 編集支援:阿部匡宏
NO.720 2015.10.16 掲載 
戦争
百日草の詩(11)
 
戦争体験を伝えていきたい…(U)


                       戦争体験を伝えていきたい…〈T)は68編をどうぞ!

        
 
投稿:栗原茂夫(港北区高田西 。著作「ドキュメント 少年の戦争体験」) 


  新聞のコラムを読んで

先の戦争を中国で戦った作家・村上春樹さんの父上は、毎朝仏壇の前で長い間こうべを垂れるのを常とした。息子の春樹さんがそのわけを聞くと、「戦争のために亡くなった全ての人のために祈っている」と答えたそうだ。

村上さんは、亡父の記憶として、この「死の存在感」に関わる記憶を「父から受け継いだ数少ないものの一つで、最も重要なもののひとつです」と述べておられる。

  新聞のコラム「照明灯」(神奈川新聞 20151012)が伝えるエピソードだが、戦争の実相を語り継ぐ意義を考えさせる好記事だった。

前掲の記事では、関連として大阪の福山琢磨さんが毎年出版している書籍「孫たちへの証言」が紹介されたのだった。

 全国から寄せられた寄稿数は1万8千編を超すという。今年は応募総数381編から100編が掲載され「70年への想い 記録遺産へ」と題されて刊行された。30集までが当面の目標としている、その第28集である。累積された数々の証言は誠に貴重な記録遺産といえるのではないだろうか。


戦争体験を毎年全国の応募者から厳選して編集した第28集

  最初の応募原稿――掲載記事

墓誌にみる戦禍の記憶

 墓参のたびに墓誌をみる。平素、記憶の底に沈んだままの戦禍のこと、島の土となった父・弟たちのことを想起するひとときのために……。

殉国院修範釼正居士 昭和19年6月26日 俗名 修藏 35

 法名 釋勝浄童子  昭和19年8月1日  俗名  勝 2歳

 法名 釋輝南信士  昭和19年8月24日 俗名 輝夫 5歳

3柱は揃って昭和19年没である。玉砕の島サイパンが初めて戦禍に見舞われた年だ。島で生まれたわたしは9歳だった。



港北区高田西の塩谷寺に建つ栗原家の墓誌。
父と弟2人の3柱と左端に母・都の法名が刻まれる

6月11日昼ごろの空襲警報にまず驚いた。15日には米軍が上陸。進攻の速さに追われるように軍民ともに北へ北へと逃れた。栗原家も艦砲射撃が頭上を襲う夜のジャングルをハグマン半島に向かった。親戚の青木家と合流するために……。

洞窟内で両家13人の共同生活が始まった。身の安全は守れたが問題は水と食料だった。糧を求めて父と叔父は毎日洞窟を出ていった。島全体が水と食料の枯渇に苦しんでいるときである。わずかな水が得られたときは一口飲んで次に回すしかなかった。幼い輝夫が水筒を抱えて離さないことがあった。母は怖い顔で奪うようにして次の手に渡した。勝は出なくなった母の乳房を必死に求めた。子どもながらに痛ましく思われる光景だった。70年経った今でも脳裏から消えることはない。飢えと渇きは極限状態に近かった。

6月26日。洞窟を米軍に発見され、わたしたちは遂に連行されてしまった。父と叔父は洞窟を出たままだった。米兵が洞窟に踏み込む直前遠くに2発の銃声を聞いた。が、戦禍のなかではよくあることなので聞き流したままでいた。

「捕虜になれば戦車に轢かれて殺される」と聞かされていたが、気が付くと有刺鉄線に囲まれた広場にいた。ススペの民間捕虜収容所だった。

 初の夜を迎えた。わたしたちは互いに体を寄せ合い小さな塊となって砂上に臥した。父の安否が気遣われて胸騒ぎを抑えがたかった。艦砲射撃や爆撃の気配はなく静かだった。洞窟に反響する米兵による投降の呼びかけだけがいつまでも耳に残っていた。

デテコイ デテコイ ミソ(水)アリマス デテコイ

砂上でなく屋根付きの小屋で寝起きするようになった。床はないので勝は地面に敷かれた軍用毛布に静かに臥していた。乳の出ない母親の乳房などすっかり忘れてしまったかのように……。

衰弱がすすむ勝に兄としてやれることはなかった。それどころか見守りすら飽き飽きして気持ちはささくれだっていくようだった。

8月1日、勝は栄養失調のためあっけなく息を引き取った。わずか392日の命だった。

  小屋に床が張られた。輝夫はその小屋から一度も外に出ることなく衰弱がすすむ体を力なく横たえていた。顔や手足がむくんでしまっていた。養生の手立てのないまま栄養失調のため輝夫も勝の後を追うように逝ってしまった。8月24日のことである。

二人の亡骸は収容所内の共同墓地に葬られた。ショベルカーが掘った大きな穴に、ダンプカーで運ばれてきた多くの亡骸がまとめて一気に落とし込まれた。折り重なって目の前を消えていった無造作な埋葬は、まるで土木工事を見るようだった。飢えと渇きから解放されることなく逝った輝夫と勝に母が呟いた。

「ごめんね。すぐ後からいくからね」

行方不明の父と叔父は対日講和条約が締結されても還ってこなかった。母は父の死亡年月日を昭和19年6月26日として鬼籍の人となした。家族が最後に別れた日であり、わたしが2発の銃声を聞いた日である。

国防色の国民服が遠目には日本兵に見えたのだろうか。



第28集『孫たちへの証言』第5部「特別編」掲載記事の一部 

<編者・福山琢磨 新風書房刊 100人の戦争体験記掲載 平成27年8月1日発行>


  予選を通過

5月10日付け「予選通過のお知らせとお願い」の葉書が届いた。「2次選考の参考のため」として6項目の質問が列挙されていた。多くは簡潔に答えられたが、問題は次のような要望だった。

C「洞窟の大きさ、形など図に書いてください。食べることはどうなされましたか。米兵が洞窟に踏み込んだ場面、どうなされたかなど詳しく書いてください」

字数制限がクリアできれば「孫たちへの証言」としていちばん伝えたかった体験を問われたのだった。

わたしは次のように回答した。

  洞窟について……最初に避難した生家に近い洞窟は近隣の住民や負傷兵といっしょだった。ハグマン半島の洞窟は栗原家と青木家あわせて13人の占有だったので余裕ある空間だった。(およその形状は別紙)

  食料について……近くの畑の冬瓜を生で食べたが、すぐ尽きてしまった。父と叔父が食料と水を求めて洞窟を出て行き、まれにわずかな軍用の乾パンを持ち帰ることがあった。しかし半月の間ほとんど食べていないといってよいくらいだ。空腹にはすぐ慣れたが、渇きは耐えがたかった。勝は母の乳を求めたが、飢えている母の乳は出なくなっていた。

   米軍が洞窟に踏み込んだ場面……恐縮ですが、拙著「ドキュメント 少年の戦争体験」第5章をご参照いただけるでしょうか。(冊子は返却不要で……)



「採用掲載のお知らせと<校正>のお願い」の文書届く

 初夏を迎えたある日、標記の文書が届いた。「多少手直ししたところもありますので、校正のゲラ刷りをお届けします」とあった。

  同封されたゲラ刷りを取り出して驚いた。わたしが「孫たちへの証言」としていちばん書きたかった<洞窟で体験した飢えと渇きの日々><米兵に発見される><民間捕虜収容所に連行される>のあたりにスポットがあてられたゲラ刷りになっていたのだ。問に対する回答として届けた拙著を生かしていただいた編集者に対する感謝の念が湧いた。

 「サイパン島の洞窟で空腹と恐怖で地獄の日々」となっていたタイトルを「サイパン島の洞窟で飢えと渇きの日々」に改めた。恐怖より渇きが実感だったので……。

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