編集:岩田忠利 / 編集支援:阿部匡宏
NO.734 2015.11.06 掲載 
戦争
百日草の詩(11)
 
公学校の教科書ーその1

        
 
投稿:栗原茂夫(港北区高田西 。著作「ドキュメント 少年の戦争体験」) 


  父の記憶 

戦争のため35歳しか生きられなかった父修藏だが、傘寿を迎えた今でもわたしの記憶に残っていることがある。
 国民学校に入学した年の、ある夜のことである。

 父は、南洋興発製糖会社の現場における責任者としてサトウキビ栽培を中心とした熱帯農業に情熱を傾けていた。汗と脂のにおう地下足袋は父の匂いだった。

その父が正装し自転車でガラパン(島内一の繁華街)に出かけることがあった。わたしはある種の期待をもって父の姿が門から消えるのを見送った。


 父の帰りを待つわたし

 父は日が落ちる前には必ず戻るのを常とした。サトウキビ畑とわずかな人家しかない第一農場には電気がなく、暮れると漆黒の闇となるからだった。

父がそろそろ帰る時分になると、わたしは縁側に出て門のあたりに目を凝らす。自転車が門前に現れるとうれしかった。庭の広場で父が片足を高く跳ね上げて跳ぶように降りる。その様子はまことに颯爽たるものだった。どうかすると、その瞬間の表情が<何かいいことがあるかのように>輝いて見えるのだった。「いいことの前触れだ」と確信した。



   サイパン島最大の企業、南洋興発

父が栽培したサトウキビは、写真のようにこの製糖工場に運ばれてきた




    戦禍に遭う前のガラパンの町並み

地上に車、空に飛行機飛ぶ島いちばんの繁華街だったが、戦禍で廃墟と化した

  お土産は「公学校国語読本」

ランプの下で夕食が終わると、父は紙袋から一冊の本を取り出した。

 「公学校国語読本」だった。国民学校で使っている国定教科書を除けば、わたしの所有する唯一の本だった。喜びと興奮は大変なものだった。(入手した経緯は不明。中島敦が内地の妻に宛てた書簡に「サイパンには、岩波文庫を(ほんの少しだけれど)並べている店が1軒ある」だけ……と書き送っているので、購入したものではないはずである)



      島で唯一の公学校

島民の子どもたちは、ガラパンにあるこの学び舎で日本語を学んだ

 最初のページは

イチバンボシ ミツケタ。 アノ ヤシノキノ ウエニ。

だった。文章の通りの写真が添えられていた。国定教科書の方は

   スズキサンガ、サクラノ ヱ ヲ カキマシタ。

   ハヤシサンハ フジサンノ ヱ ヲ カキマシタ。

のように、島の子が知らない「サクラ」や「フジサン」が出てくるのだが、公学校国語読本は「ヤシ」が出ていて親しみやすい感じがした。

七十数年たった今でも「アノ ヤシノキノ ウエニ」を覚えているのは、繰り返し音読したからだろうか。最後まで読み通したかどうかは記憶にないが……。


  戦禍で失った「公学校国語読本」

「父ちゃん。公学校はどんな学校なの?」
  「島民の子どもたちが日本語を習う学校だ。島に一校だけで、ガラパンにある。」

島民の子どもたちとは接点がなくイメージが持てなかったが、彼らの国語読本に親しんだ。

昭和19年6月、サイパン島は戦禍に見舞われた。国民学校3年生だった。生家はその後、B29の滑走路の下になってしまった。大切にしていた教科書もろとも……。

 国定教科書は復刻本を購入して手元にあるが、父が入手してくれた公学校国語読本の方は失われてしまったままである。
  痛恨の極みだ。



公学校国語読本 ヨミカタ一

文部省 昭和16年2月10日発行 定価金19銭


      母とチャモロ人の子どもたち

戦後初めて浦賀の土を踏んだ母と弟との3人は、33年後、島に眠る父・弟二人の慰霊のため島を訪れた




平和な島が戻り、のびのび遊ぶ子どもたち
「とうよこ沿線」TOPに戻る 次ページへ
「目次」に戻る 百日草の詩(16)へ