二人の子の手を引き、2カ月の3男を背に避難
大東亜戦末期の空襲で渋谷・道玄坂の私の家が焼けたのは、昭和20年5月25日の未明のことだった。
5月25日夜、私は子供達の枕元で富山に学童疎開した
9歳の長男に手紙を書いていた。しかし書き終えるとすぐラジオが敵機の襲来を告げた。
11時を少し回った頃、私はいつものように静かに子供たちを起こした。
5歳の長女、3歳の次男、そして生まれて2カ月も経たない3男を背にくくると、
厚く綿の入った防空頭巾をすっぽりとかぶった。必要な物だけを小さくまとめて片手に、片方は幼い児の手を引いて、道路向こうの隣組の壕へ避難した。
壕の中には近所の人がほとんど集まっていたが、子供連れは私だけ。誰−人声を立てる者もなく、お互いに眼ばかりキラキラ光らせて、緊張した空気の中で時の経過を計っていた。 |

B29の爆撃下、渋谷市街を避難する母と子供たち
渋谷区発行『渋谷は、いま』から |
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焼夷弾の燃え盛る炎のなか
頭上を旋回する飛行機の爆音が少し遠のいたと思うと、壕の扉が外から開いて、「早く出ろ!」と誰かが叫んだ。私たちは若い消防服の男に次々と舗道の上に引き上げられたのである。ところが、私は壕を出た途端、「ああっ」と叫んで、道玄坂の三差路を中心にばら撒かれた焼夷弾の青白い炎の海の中に立ちすくんだ。
眼を移すと、わが家のある道玄坂の辺りも火に危うく、母と主人は一散にそこへ駆け戻ってしまった。早く火を防ごうと思ったのだろう。その後姿には声を掛ける隙もなかった。
取り残された私に2人の子供がすがりつき「おかあちゃん、怖いよう」と泣き出した。背負った赤ん坊だけが眠っているのを幸いに、私は防空頭巾を濡らしてかぶり、一刻も早くここから逃げようと決心した。
「道玄坂は今、燃えている最中だ」
右往左往する人たちはあっても、もう自分のことで精いっぱい。持てるだけの物を手にした人たちは安全だと思われる方向へ我れ先にとなだれて行くのであった。私はフトそれに危険を感じた。この人波に呑まれてしまったらかえって子供たちとも手を離してしまうかもしれないと思った。ともあれ、私は駅前から燃え広がる火を避けて進路を西にとった。

燃え盛る渋谷警察署前
渋谷区発行『渋谷は、いま』から |
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だが道玄坂を上りにかかると、ザーッというすさまじい音を立てて焼夷弾が降ってきた。あたりの建物が家鳴りをする恐ろしさに、思わず「助けてください」と叫びながら東宝映画館の庇(ひさし)の下に走り込み、子供たちの肩の上にかぶさった。
顔を上げると、はるか遠い空から敵機は、なお焼夷弾を降らせている。それはちょうど、十能(じゅうのう)から燠(おき)を振り撒いたようだ。私たちは再び歩き始め、栄通りへ下った。風が火を呼ぶのか、火が風を誘うのか、プラタナスの街路樹が枝を鳴らすほど強い風が吹き始めていた。 |
私たちは西へ西へと歩いていた。神泉駅まで来ると、低空で機銃掃射が始まった。私たちはそのまま暗いトンネルの中へ逃げ込んだのである。熱気を含んだ風が吹き込んで、限りもない不安が私たちを包んだ。ことによると、ここで死ぬかもしれない。私の心は悲壮になり、強く子供たちの手を握った。
しかし眼が闇に慣れてくると、そこかしこに固まっている人の姿が見えてきて、遠くの方で何かボソボソ話している声が……。私は誰にともなく「道玄坂はどうなったでしょう?」と尋ねた。闇の中から誰やら「道玄坂はいま燃えている最中だ」と太い声が答えた。母や主人は無事逃げてくれただろうかと俄かに私の胸が騒いだ。
しょんぼりした母の姿が…
どれほどの時間が経ったのだろうか。トンネルを出てみると、ミルク色に五月の夜が明けていた。神泉駅の坂を円山町へ上ってくると、前々日の空襲ですでに焼かれ、焼け跡に大勢の人々が避難していた。
そして積荷のないリヤカーにヤカン一つをぶら下げ、しょんぼり腰をかけている母の姿もそこにあった。「あっ」と見合わせた眼と眼が互いの名を呼び、ぐっと涙が喉に詰まって声にならなかった。
「よくまぁ無事でいてくれたねぇ! 子供を3人も連れてどこへ逃げたかと、お父さんと2人でどんなに心配したことか……」
と母は言った。主人は世田谷経堂駅前にある店も昨夜の空襲で焼けたのではないか見に行っているという。その店さえ無事なら、私たちはさしずめ野宿をしなくて済むのであった。やがて主人は、経堂の店が無事なことを見とどけて帰ってきた。
みんなが無事でよかったと、私は白い太陽を拝んで坂を下りた。坂の上から見た道玄坂は角々の目印をまるでなくして、坂下までの距離が短くなったように感じられ、燃え残りから吹き上がる白い煙がひどく目にしみた。
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◆藤田佳世さんが遭遇した昭和20年5月25日の空襲は、渋谷区内を襲った過去12回の空襲で最大規模。渋谷区内で900人以上の死者を出した。区内の羅災面積は終戦の8月15日までに76%にも及んだという。
藤田佳世さんの情報は、「写真が語る沿線」の「渋谷区編」NO.6 「約100年前、大正時代の渋谷」 NO.10 「渋谷ゆかりの作家たち」に。
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