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第20信 私のバンクーバーでの住み家 2007/11/22 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
昨年末退職し、2週間後には日本を離れ、海外生活1年間を目標にバンクーバーに住みつきました。 現在、あと1カ月でその1年になろうとしています。結果として、滞在の前半は近代建築に囲まれたダウンタウンの生活、後半は昔からの建築様式が残っている郊外の生活となりました。 今振り返ると、退職の半年前ぐらいから幾つかの退職祝いの宴会の最中でも、どんな所にどのような家を借りるか頭から離れませんでした。
ダウンタウンのマンションの部屋探し バンクーバーに住んで3年の甥などが住宅情報を集めてくれました。 最終的にはアメリカの会社が運営しているネット住宅情報を通じ、日本に居ながらにして多くの物件を検討出来ました。一件の紹介料15ドルをネット運営会社にクレジットカードで支払うことにより、直接オーナーと連絡・交渉が出来るシステムでした。 見知らぬ海外の土地で生活を始めるに当たり、家賃が少々高くとも交通、食材を始め日用品の買い物、イベントへの参加などを考え、ダウンタウンのマンションを探し求めました。食器、家具、電気製品等備え付けのマンション(ファーニッシュド・ルーム)4~5件に絞り込みました。退職2カ月前に、休暇を利用してバンクーバーへ下見に来ました。 マンションの各オーナーに物件を見せて貰った結果、日本食品を含めアジア人に評判のマーケットがビルの中にあるマンションに決めました。「ダウンタウン」といえども、もう少し行けば「チャイナタウン」。チャイナタウンの先にはバンクーバーの影の部分、ホームレスのメッカがあり、治安の面から甥たちは否定的でした。自分もホームレスのような格好をすれば、危険は無いだろうと買いかぶって私は即決しました。
オーナーは10年前ウクライナからの移民 家主は人柄も良さそうなジェントルマンで、借主の私は金持ちには見られないようにしつつも出来るだけ紳士ぶって料金交渉をしました。彼の英語をなかなか理解できず、大分自信喪失していたら、甥の奥さん(日本語の出来るカナダ人)が 「おじちゃんが分からないのも無理ないよ! 彼の英語はウクライナ語交じりだからね」。瞬間安心しましたが、その後のカナダ生活に不安が残りました。 2棟のマンション建設工事の騒音と引越しの決断 住み始めて1カ月も経たないうちに、駐車場であった隣の広場が大きなマンション建設工事開始となりました。予想はしていたが、そんなに早くやるの! しかし、我々としてはここが地の利が良いと、半年ほどの間、工事の騒音には我慢に我慢を重ねました。ところが、夏の2泊3日の旅行をバンクーバー島の北の外れの静かな小島で過ごしました。そこは人里離れて、まさに自然を楽しむ時間消費型でした。3日間静かな環境でゆっくり過ごしてきたので、自宅に帰ったら余りの工事の騒音に我々夫婦の耳がビックリして、とても耐えられない。静かな郊外に引越しを決心しました。 郊外の戸建の家主は30年前ユーゴスラビアからの移民 ダウンタウンから10キロほど東の郊外に2階建ての民家を探しました。そこは今主に日本人に貸していて、日本人女性にしか貸したがらない女主人。 家主一人は2階で、我々は1階(ベッドルームと居間各1部屋)を占有。家具つきで、布団・敷布・タオルはもちろん、炊飯器・箸・皿・ナイフなども完備。家賃は以前のマンションと比較して半分以下。交通、買い物の便は悪くなったが、道路は大きな街路樹で囲まれているため気分的にも極めて静かで家内は大満足。 家主によれば、今までの日本人の間借り人の評判はすこぶる良かったそうです。我々日本人シニアとしてはますます日本人の評判を高めなければ、と。私も家主にとって“善良な間借り人”となるよう振る舞いに気をつけることにしました。 車社会ですからどの家庭でも車が2台入る車庫と家の前後に庭スペースがあります。表道路に加え、地図には載らない裏道路があり、ゴミの収集、駐車場へのアクセス道路があります。表の道路にもさらに駐車スペースが完備(?)されていて、誰でも何時でも駐車出来ます。従って車取得の際に日本のような車庫証明は無用。車社会でいろいろな問題があるに違いないとはいえ、なんとも羨ましい限りです。
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第19信 もう一つの国「カナダ」を訪ねて 2007/10/10 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
“時は金なり”の逆も真なり(?) バンクーバー滞在がすでに9カ月になり、初めて航空機を使ったカナダ国内旅行を企てました。バンクーバーは英語圏でカナダの西部、今回の目的地のモントリオール、ケベック・シティーはフランス語圏でカナダの東部に位置します。 国内旅行といえども、片道5,000キロほどの遠距離です。航空運賃もネットで調べましたら、片道エコノミーでも国際航空運賃並み。日系の旅行会社の「3泊4日:紅葉のモントリオール、ケベック・シティーの旅」はホテル、鉄道とオプショナル・ツァーの組み合わせでした。航空券手配は旅行者自身が航空券専門業者のカウンターで買うか、航空会社のウェブサイト上でクレジットカードによる購入方法の二つです。 ウェブ上で新たな買い物情報をみつけました。バンクーバー発モントリオール行のフライトは早朝便から夜行便まで一日10便ぐらいあり、普通運賃は一人6万円相当です。たまたまか、旅行出発予定日の前日の午後1時発の便だけが片道約3万円。家内と二人で6万円安い。リタイヤーにとって1日出発日を繰り上げはお安い御用。前泊のモントリオール空港内のホテル代と1日分の追加食事代など締めて合計2万5千円也。従って、3万5千円の節約と相成りました。ほぼ快適に<時間を使って費用の節約>ができ、家内も大喜び。
フライト中でも「英語圏」から「フランス語圏」へ 久しぶりの航空機搭乗とあって少々興奮気味・・・。しかも大手の元国営航空会社に対抗している“新興の小さな航空会社”のフライト体験です。所要時間5時間ほど。 バンクーバー空港を離陸、しばらくの間の機内アナウンスは「英語」、その次が「フランス語」でした。約半分ほど飛行時間が経過し、そこから「フランス語」、次が「英語」の順。同じ国の中でも微妙な力関係がそうさせているのだ! と納得。到着したモントリオールでは、当然空港内の案内板をはじめ交通標識など、すべてがバンクーバーのそれとは逆でした。アナウンスする客室乗務員も別の人が担当する場合もありました。今までのカナダの首相の中でたった一人だけフランス語が話せない首相が居たそうですが。当時カナダ国民の「支持率」はどうだったのでしょう?
カナダからの独立を画策するケベック州 カナダ10州の中で最大の面積を持つケベック州は人口約800万人。カナダ全人口の約15 %を占め、オンタリオ州の人口に次ぐ。また、人口の約80%はフランス系の人種が占めます。ケベック州の州都はケベック・シティー。州最大の都市はモントリオールでトロントに次ぐカナダ第2位の都市。 モントリオールに住む人々のモットーは「人生楽しく」。あらゆる娯楽が楽しめるエンターテイメント・シティーです。また、ケベック・シティーは北米唯一の城塞都市であり、ユネスコの世界遺産にも登録されています。城壁内は、石畳の細い道や、「カレーシュ」と呼ばれる観光馬車など、中世ヨーロッパを感じさせます。 この旅行出発前にバンクーバーに住んでいる友人がアドバイスをしてくれました。「ケベック・シティーでは片言でも良いから出来るだけ「フランス語」を話すように!」 また、日本人は許されますが、カナダ人が飲み屋に英語で入ったら、追い返されてしまったとか? むかし5年ほどパリに滞在経験のある家内はカナダの「フランス語圏」を旅行しているうちに、すっかりパリに帰った気分になり、片言のフランス語でケベコワ(フランス語でケベック人の意味)の店員らと挨拶をしていました。宝石店前では店員からやさしいフランス語で声を掛けられ、気が付いたら指輪を買ってしまって、私になんだかしきりに言い訳をしていました。 寿司(主に巻き寿司)のテイクアウトのお店は幾つかありました。ケベック・シティーには日本人が20人くらいしか住んでいないが、去る8月には初めて日本レストランが開店したと日本人ガイドさんは大変喜んでいました。 ガイドさんのご主人はやさしいケベコワ(ケベック人)ですが、寒さにはめっぽう強いそうです。真冬は日中でもマイナス20~40度ぐらい。第一子の出産はその真冬、出産4日後には強制的に退院。生まれたばかりの赤子も、退院時マイナス40度の寒空にさらされる試練を受けました。が、現在2歳で順調に育っているとのことでした。
ツアーガイドさんと“一緒に歩くオプショナル・ツアー” ケベック州地方は今紅葉の最盛期です。旅行会社によるとケベック・シティーではバス・ハイヤーがすべて出払ってしまい、唯一、利用できるのは“ケベック市内をツァーガイドと歩く”オプショナル・ツアーだけとのこと。我々の好きな所に案内してくれて、買い物もエスコートして一人約4000円、家内と二人で8000円と格安。一人のガイドさんを家内と二人だけで3時間も独占し、VIP気取りでした。城壁内の観光は徒歩でも充分見て回れました。それほど小さな街であるとも言えます。 泊まりは最高級のホテル「ル・シャトー・フロントナック」。セント・ローレンス川に面した断崖の上に聳え立つ、まさにシャトー。 高級ホテルでの滞在は慣れてなく、翌朝は5時ごろ目が覚めてしまい、6時には人影のないロビーを一人ふらつく。コンシュエルジにコーヒーショプはまだ開かないのかと訊きました。 「7時からだけれど、コーヒーが飲みたいのだろう~? 作ってきてあげるよ!」と3~4分で無料のコーヒーを持って来てくれました。高級ホテルの常連客のような振りをして、早朝の30分余をリッチな気分で寛ぎました。
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第18信 カナダ「日系人」のお盆ツアー 2007/9/05 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
退役シニア1年生のお盆休みプラン 昨年末、1年間の滞在予定で日本からバンクーバーに住み着いて以来、日系人の歴史や暮らしについて大いに関心を持っておりました。日本の<お盆>の時期は、正月や春の大型連休と同様、ほぼ日本全体が休日モードになります。 退役シニアの“毎日サンデー”の私とて、6月頃から「今年のお盆をどのようなプランにしようか」と思案していました。幾つかの日系の新聞・雑誌メディアに<バンクーバー島へのお盆ツアー、8月10日~12日>の記事広告が掲載されていました。 当初は仏教徒や特定宗派の人たちのお墓めぐり行事だと思っていました。しかし、しばらくして<お子さんや孫を連れ、社会見学ツアーも兼ねて参加をお勧めします>。さらに<日系先輩の足跡を体験する>との説明(広告宣伝?)が目に留まり、日系の取扱旅行会社に電話をしました。日本語のできない係員が「満員だったが、今キャンセルが1つ出ました ! 1部屋2人までなら今すぐ予約が出来ますよ~」。 元クリスチャンの家内に同行を説得するのも大変だと考え、 「オー・イェース、アイ・ウィル・ゴー オンリー・ワン・パーソン」 となって、私のクレジット・カード番号を伝えて予約しました。 異国の地で先祖を想う心を知る 日本に居ては当たり前のようにしか響かない、特に気にも留めていなかったお盆についての説明が聞ける良い機会でした。 <お盆は自分の先祖を想い、長い、長いご縁の鎖の不思議に畏敬を感じ、と同時に今ある己の存在に感謝の意を表する素晴らしい時なのです>。この言葉が、私にとってはなぜか新鮮な響きがしました。結果としては家内と同道しない一人参加は、素直に自分の父母や先祖の恩を噛みしめることができました。6万円相当の2泊3日のツアー(食事抜き)の衝動買いも良かったと自己満足しています。 カナダに日本人が最初に移住してから130年です。日系カナダ人にも先祖があり、長い人で5世代になります。現在日系5世の人は、少なくとも直系の親族が16人は居るわけです。その誰か一人でも欠けていたら、その人はこの世に居なかったことになります。
太平洋戦争が残した影 ブリティッシュ・コロンビア州の州都はバンクーバー市でなく、ビクトリア市(人口29万人)でバンクーバー島にあります。バンクーバー島へはバンクーバー市からフェリーに乗って東へ1時間半ぐらい。フェリーはバンクーバー市から島内第2の都市、ナナイモ市(人口約8万人)へ行きました。 太平洋戦争のため強制疎開で島から離れた日系人は、それまで苦労に苦労を重ねてやっと得た、土地・畑・家・家具等全て失い、多くの人は島にも戻れませんでした。1941年以前に島で亡くなった日系人の墓の木製の墓標は朽ち果て、石碑だけ風化して残っていました。ほとんどが無縁仏です。中には戦争中に破壊され、長い間放置されていた墓が、地元の市・町当局の支援を受け、日系人の手で新しく合同記念碑が建てられたのもあります。日本と異なり、火葬でなく土葬です。墓石が二重・三重に重ねてなく、通常畳1枚大のスペースに、名前と生存期間が記された30cm×60cmの墓石が上部に置かれて、それ以外のところは芝生で覆われています。静かに点在するこれらのお墓の背後に、当時の社会情勢と日系人の過酷な生活状況が偲ばれます。
日系人先祖の軌跡を訪ねて このツアーは、バンクーバー仏教会の女性開教使・関係者・カナダ各地からの多くの信者と私のような旅行者の一行29人でした。この地で生まれ育った人で友人の墓参のための参加した人、自分の親族の墓参に来た人もおりました。私のような“ビジター”を除き、日本語より英語の方がスムースに出る“日系カナダ人”ばかりで、英語漬けの3日間でした。 バンクーバー島内の、ナナイモ市墓地、ダンカン市墓地、シェマナス市墓地、カンバーランド市日系墓地、ポートアルバーニー市グリーンウッド墓地の5カ所を3日間で回りました。 墓地で法要が営まれ、私も参加してお焼香をしました。また、1893年から多くの日系人が働いていた炭鉱の町カンバーランドでは、炭鉱の掘り出し口のすぐそばに日系人街(Japan Town)ができていましたが、太平洋戦争開戦のため1942年に閉鎖されました。一時は約300世帯が住んでいたと言われています。 そこには当時の消火器が残っていたり、日本人が植えたと思われる、りんご・梅・フキなどがまだ生えていたりしました。二日目の夜はカンバーランド議会主催の記念晩餐会にツアー参加者全員が招待されました。 参加した<お盆ツアー>は宗教家による法要が何回も繰り返されましたが、無宗教の私でも余り違和感はありませんでした。それどころか、先祖を想う心に接することができ、また異国の地で先駆者として今の我々には想像もできないほどの困難を乗り越えて苦労した日系人の軌跡を辿ることができ、たいへん充実した“お盆休み”になりました。 【ダンカン市墓地】
【チェマイナス市】
【カンバーランド市】
【ナナイモ市墓地】
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第17信 バンクーバー・日系コミュニティー夏の風物詩 2007/08/06 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
お神輿、たこ焼き、サーモンBBQ・・・日系人の「パウエル祭」 日本三大祭りというと、京都の祇園祭、大阪の天神祭、東京の神田明神祭です。また、東北三大祭りの、仙台・青森・秋田の夏祭りは余りにも有名ですね。 ここバンクーバーでは、去る8月4日(土)、5日(日)の両日、日系コミュニティー最大のイベントである第31回パウエル祭( Powell Street Festival)が開催されました。バンクーバーにおける各国のコミュニティーの祭典では最も歴史のあるイベントです。 「パウエル」とは、街・道路の名前ですが、今から100年前にはこちらに多くの日本人が住んでいて日本人街<ジャパンタウン>となっていた地域です。その頃、急増する日本人に対し反発する地元白人・原住民が日本人を狙い撃ちにする人種暴動を起こした所です。なお、祭典の開会式に日本国総領事とバンクーバー市長などが参列されました。
祭りの舞台は、メイン会場の「オッペンハイマー公園」とその周辺にある「日本語学校並びに日系人会館」・「バンクーバー仏教会寺院」です。 公園内にはフード屋台が並び、たこ焼・今川焼き・饅頭・カキ氷・焼きソバ・サーモンのBBQ・麦茶などが売られていました。また陶芸作品・千代紙を使ったアクセサリー・着物地を使ったバッグなどを販売するクラフト屋台。多くの女性が実際に担ぎ手として活躍した、公園内を練り歩くお神輿の登場。メインステージでは、各地からの幾つかの太鼓グループの演奏まどさまざまなアトラクション・パフォーマンスがありました。また、相撲大会・空手/合気道のデモンストレーションなど日本の伝統文化、芸術、社会慣習の多くが展示・披露されました。日本ファンのカナダ人は大いに「パウエル祭」を堪能されたことでしょう。
シニアも若者に負けじと活躍 メインステージにシニアの登場は、西川流舞踊・民謡踊り・エキササイズ<健康体操>でした。民謡踊りは91歳の女性を先頭に、ほとんどが70歳以上。民謡踊り・健康体操は、日系のコミュニティーセンター「隣組」としての参加でした。 日ごろのお付き合いを考慮して、私も舞台上に10人のメンバーの1人として“出演”しました。メンバーの中では私が65歳の最年少(?)でした。大人になってこんなお祭りのステージに上ったのは、今回が初めてでした。また、会場内の多くの見物人も一緒にラジオ体操に参加してくれましたので会場全体が一体感になりました。7~8分の“その他大勢の出演”でしたが、お祭りに対する私の感想は、見物するだけとは大いに違うものだな~と自己満足。
補記 現在バンクーバーのごみの回収は一切されてなく、市民は生ごみの処理で困惑した状態です。多くの家庭では炊事をしていないようです。 私たちが去る8月14日、郊外の戸建の家の一階に引越ししました。家主は「ええ? 炊事をするの?」と家内に詰問し、またその言葉にこちらもビックリ・・・。 7月20日からごみ回収等の部分ストでしたが、7月23日からイマ―ジェンシー業務の警察や消防などを除く市役所全職員による全面ストライキとなっております。強硬姿勢のバンクーバー市長と労働組合の力比べが今でも続いております。 そんな状況の中、8月4日、市長はパウエル祭でお祝いの挨拶はありませんでしたが参列されました。市長が2010年のバンクーバー冬季オリンピックのスムースな開催のための事前工作(延命工作?)をしているとの噂があります。 |
第16信 わたくしのカナダ体験記『明日を楽しくする心』 武井悠美子 2007/08/06 | ||||||||||||||||||
親しくなった菊池夫人 私と主人は運動不足を解消するため、バンクーバーに来てすぐに日系人が中心の「隣組」という福祉団体(http://www.jcva.bc.ca/indexj.html/)のプログラム<健康体操とマッサージ>に参加しました。そのほか、民謡踊り、カラオケ、マージャン、卓球、書道、英会話などの教室があります。 私は毎週月曜日、その体操だけに参加していました。皆さんは70歳代、80歳代そして91歳の方々で、私が最年少者であることにビックリしました。 今では体操が終わった後も、4ドル(約440円)でボランティアの方が作られた日本食のランチをいただき、美しく年齢を重ねられている方々といろいろなお話もできるようになりました。ほとんどの方は老後もカナダに永住する方々ばかりで、「どうしてバンクーバーにいらしたのか」などたくさんの貴重なお話を聴け、毎週の耳新しいトークが楽しみです。 ある日、菊池さんという方と知り合いになりました。とても上品な教養のある素晴らしい方です。菊池さんは今82歳。ご主人は昨年亡くなられたそうです。その後知りえたことですが、ご主人は第1次南極越冬隊員で映画<南極物語>の主人公・菊池徹博士で、高倉健が演じました。『タロー・ジローは生きていた 南極・カラフト犬物語』の本も監修しました。(http://www.rikuryo.or.jp/home/people/kikuchi0.html/ をご参照ください) ご主人は若いころ地質学の研究で何カ月かこのバンクーバーに住み、ここなら子どもたちが伸び伸び育つと、家族全員を呼んで、もう40年もここに住んでいらっしゃるのです。 未亡人は毎日、朝に晩にお塩で顔を洗っておられるとか。お肌はツヤツヤ、ピンとしています。さっそく私も“真似っこ”しています。また、私は血圧が高くなってしまったと言ったら、酢と蜂蜜にバナナを漬け、それを毎日飲みなさいと教えていただきました。 何歳になっても元気な方は、いろいろなことをよくご存知だとまったく感心しました。爪も鹿の皮でピカピカにお手入れなさっていました。さらに、ボディー・スーツもちゃんと着ていらっしゃるのです、スゴイ!! 先日は3泊4日のバス旅行もご一緒でした。私の母は82歳で亡くなりましたが、その母の年齢と同じとは、とても考えられません。 「健康第一」って本当です。4日間の旅はず~っと同室でご一緒し、82年間の半生、そして夫婦愛の素晴らしいお話をたくさん拝聴し大感激しました。また驚いたことに、毎週、月曜日は体操、火曜日はヨガ、水曜日はポーカー、木曜日はマージャン、金曜日はカラオケと毎日「隣組」にバスを2回乗り換えて来られているようです。さらに夜はパソコンを相手に毎晩マージャン、スカイプで電話は無料でできるなど、生き生きと生活をエンジョイしておられます。聞きたい音楽会には息子さんに車で連れて行っていただいております。 <明日を楽しくすることを思う精神> こそ、彼女が心身ともに健康で生活できる秘訣だと思いました。
結婚式と出産祝い 当地バンクーバーでの習慣として結婚式や出産の前に、本人には内緒で友人・親戚がグループを作り、企画し、プレゼントを用意し、ポットラック(ひとり一品の持ち寄り料理)で乾杯をします。また、事前に希望するプレゼント品を本人がリストする場合もあるそうです。 それを“ウェディングシャワー”、“ベービーシャワー”と言います。日本のように“お返し”の習慣はありません。 式は教会などで、親戚・友人の参列で厳かに行われ、その後、お食事会。それは格式ばらず、ワァーワァー歌ったり踊ったり楽しい会にするだけのようです。
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