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第23信(最終便) 快い緊張感を感じながらの1年 2008/01/10 | ||||||||||||||
カナダの除夜の鐘 行く年・来る年の日本の年末年始の代表的行事である“除夜の鐘”がバンクーバーの郊外、コキットラムの日本のお寺で行われました。2007年12月31日夜11時45分から鐘突きが始まり、カナダの広大な台地に約2トンの吊り鐘の音が響き渡りました。 400人近くの地元の日系人とカナダ人が新しい年2008年を清々しい気持ちで迎えることができました。なお、先着108名には年越しソバが振舞われ、私も頂きました。 おめでたいイベントではありましたが、シニア世代の日本人男性として、一点だけ気になる光景がありました。 それは若い日本人女性と白人カナダ人のカップルがかなり多かったことです。深夜とはいえ家庭生活の雰囲気を持ったカップルですから、そんなに浮ついた関係ではなさそうです。国際親善でこれに勝るものは無い。でも、現実はカナダでもこのパターンのカップルの破滅で泣くのはほとんど日本人女性というケースをイヤというほど聞かされています。「どうか、賢くお幸せになってね!」と暗闇に消える女性を見送るのが精一杯でした。
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新たな気持ちで勉強し直し 岩田会長との軽い約束は毎月2便ぐらいの掲載でした。1年間の滞在ですから第24便までお送りするのが私の目標でした。 家内が担当しました3便分を含め、お読みいただいていた方にとって“物足りなさ”は否めなかったかと心配です。また、書き手としては、元々撮影技術も持ち合わせず、ましては文才も無い私が岩田会長からの提案を軽々にも受けてしまいました。 振り返ってみますと、個人的には非常に勉強になりました。が、同時に書くことの難しさが良く分かりました。また、1年間のバンクーバー生活の初めから、「しばしの暇にもデジカメで写真を撮るぞ!」「多くのカナダの疑問を解くぞ!」と毎日が一種の快い緊張感を感じながら取り組むことができました。 そろそろ、日本に帰国する準備をしている今の時点で、“余力を残して”ではなく、“ノルマを少し残し”、「除夜の鐘」レポートにタイミングを合わせて、これを最終便といたします。 これから私の日本での新しい生活のスタートは、シニアの立場を踏まえ、忍び寄る老化は当たり前のこととして受け止めつつも、身の回りの事柄、社会の問題点、国の方向性、環境問題を始め地球レベルの取り組みなどに関し、つねに問題意識を持ち、新たな気持ちで勉強をし直してみたいと思います。 縁あってご愛読いただきました皆様に深く御礼を申し上げます。引き続き“えんせんシニアネット”の会に在籍させていただこうと思っております。これからもよろしくご指導お付き合いをいただきますようお願い申し上げます。 |
WEB Site管理人からも一言 武井さん 長い間ごお疲れ様でした。一年間にわたり定期的にレポートを送信するには、担当した者にしか分からない苦労があったことと思います。 当サイトの目玉コンテンツで、愛読者の多かったコーナーが終わってしまうには一抹の寂しさを感じますが、日本へ帰国された後も、読み応えの有るレポートを寄稿いただけるのではないかと期待しております。 今後ともよろしくお願いいたします。 |
第22信 バンクーバーで活躍中のハマっ子、矢野修三さん 2007/12/19 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
「横浜の武井さんですか? はじめまして!」「じゃー、お近づきの印にさっそく一杯やりましょう! ワァ ハ ハ・・・」「またご連絡します!」 これが最初の挨拶。私の生活環境をご存じとも思われる提案でした。私がバンクーバーに来てから「男の夜の部」に恵まれていないはずと見破っていたようです。 その人はバンクーバーの矢野アカデミーの校長・矢野修三さん。私がバンクーバーで矢野さんに初めて会った時のことでした。私にとって知人・友人の少ない未開拓の地で、日本に居た頃のような一日の仕事が終わった後の居酒屋での“ノミュニケーション”の機会などは、ほとんどありません。あっても夫婦単位で限られた頻度。それにしても、何とさばけたオープンな方なんだろうと感心しながらも、一週間ぐらい矢野さんからの連絡を心待ちにしました。
激動の人生劇・・・「脱サラ後のカナダ移住」の巻 “新米”日本語教師となったある日、矢野さんは一人で横浜駅付近のあるピザ屋に入った瞬間、そこで思わぬ展開のスタートが待っていました。それがカナダ人男性との運命的出会いとなるのでした。 混み合った店内、1席だけ空いていた相席のテーブルに座りました。と、目の前に一人の外人が居たので英語の勉強のつもりでなんとなく話しかけました。その人も日本に着たばかりの“新米”英語教師で、ヘンダーソンという男性でした。しかも、お互いに住まいが近いことが分かり、そのヘンダーソン家との家族付き合いが始まったのです。 その後、矢野さんはカナダ・バンクーバーに帰国したヘンダーソン家を訪ね、急速に親交が深まり、何度かバンクーバーへ行くことに。そのうち、「環境の素晴らしいカナダで日本語学校を開校したい!」その事業欲が限りなく膨れ上がり、ついに矢野さんは、家族ぐるみのカナダ移住を決意したのでした。
卒業生1350人、生徒たちは家族同様 日本語及び日本語教師養成学校の矢野アカデミー( www.yano.bc.ca )は、94年11月、バンクーバーの友人の会社の一部を借りてスタートしました。 当初はプライベート・レッスンが中心のカナダ人向け日本語学校でした。「外国人に頼まれて日本語を教えてみたものの、うまく教えられない」という日本人からの声が多く、後に少人数制の日本語教師養成講座も開講し、これが大人気。今年で13年、卒業生は1350名を数え、日本語教師として活躍している人も少なくありません。 生徒とは心で付き合っている矢野さん。すべての生徒の写真を教室に貼り出し、みんなで飲みに行ったり、バーべキューをしたり、ゴルフに行ったりと、まるで全員が家族のようです。生徒からの評判は明るくて楽しい授業。「情に厚くて、面倒見の良い先生」が矢野さん評。そんな矢野先生の元に訪ねてくる卒業生は後を絶たず、「バンクーバーの父」と慕われています。今では矢野さんはバンクーバーの顔的存在です。
バンクーバー日系シニア社会で名士の中の名士 日系日本語新聞では2001年から毎月1回「外から見る日本語」と題した連載が現在でも続いています。月刊誌などでも有名人との対談などでご活躍中です。また、日系ビジネス界の諸団体の理事、幹事など多くの役職に就き、今ではすっかり街の名士になっています。数年前からシニアの日系人コミュニティーにも名前を連ね、ご自身の高齢化対策も着々と準備されております。 外国人に教えるための特別な文法知識 以下、矢野先生のお話: 普段、日本人は日本語を外から見ることはない。でも、海外に居住していると、日本語について聞かれたり、教えて欲しいと頼まれたりすることも度々あるものだ。しかし、意外に答えられないのである。(それには)“外国人に教えるための特別な文法知識が必要”。 外国人生徒たちは、目からウロコの質問を次々と投げかけてくる。「『おいしい』と『おいしそう』と『おいしいそう』の違いは?」 「カウントアップでは、1、2, 3, 4(し)、5なのに、なぜカウントダウンでは、5、4(よん)、3・・となるのか?」 「『おはようございます』があるのに、『こんにちはございます』は、なぜない?」などなど。 また、“我々にとってのトリビアが続々と並ぶ”言葉は文化の象徴でもある。 雨に対し嫌悪感を持つ土壌の日本語は、「雨に降られる」「雨宿り」「小走り」など、雨を避けようとする意思の入った表現がある。しかし、カナダでは濡れることをさほど嫌うことがないため、これらの表現は理解しにくいと・・・。 上級レベルの学生から、質問ではなく、こんな指摘を受けたこともあった。矢野先生は「日本語には『竹薮焼けた』などの回文があるが、英語にはない」とあるコラムを書いたのだが、学生は「英語にもPalindromeという言葉遊びがある」と主張したのだ。代表的なものは、"Madam, I'm Adam"。実際のところ、回文とPalindromeは似て非なり、近からず遠からずといったものだが、「どちらから読んでも意味が同じ」という目的は同じである。 なんと、横浜の「名士」でも 矢野さんは日本での日本語教師の時代、子息が通っていた横浜の洋光台第3小学校の「PTA会長」の依頼を最初はお断りをしたそうです。しかし、“暇もあり”、子供のためと説得され引き受けしました。サラリーマン時代ではとても考えられなかったPTA会長への就任となりました。その後は磯子区、さらに横浜市PTA連絡協議会副会長までも。“子供のため”と大上段に構えてみましたが、実は後になって日本語教師として大いに参考になったのです。このPTA活動を通して、ボランティア精神を体得し、いろいろな職業の人々と知り合い、多くの素晴らしい仲間たちと友人になれたことは、自分にとって大きな財産だったと矢野さんは大いに評価しています。
子息は学芸大学駅前の居酒屋店主 バンクーバーへ家族3人で移住した1994年8月、一人息子の潤一郎君は横浜の中学2年生でした。伸び盛りの多感な年頃、矢野さんは親としてさまざまな不安を抱えたことでしょう。 ちょうど地元カナダのSecondary School(中・高校)の新学期でした。1年生(Grade 8)に入学して、スムースな海外学校生活のスタートを切ることができました。その潤一郎君は今では27歳、10年前からカナダと中国で日本式居酒屋経営の修行を重ね、本年9月には東横線学芸大学駅の近くに「型無」という型破りの居酒屋をオープンしました。(http://www.yano.bc.ca/katanashi.htm)。きっと国際色溢れる居酒屋になることでしょう。 私は来年日本に帰国し日吉に住むことになりますが、身近な所に根城ができたと密かに喜んでいます。興味のある方にはぜひ激励に行っていただきたいものです。
<最後に、このような素晴らしい人柄、豊富な知識と幅広い経験・実績を積んでこられた教育者:矢野先生に注文をしたい。これからの日本を永続的に発展させるためには差し迫った日本の教育改革が急務の課題。 矢野先生には日本に帰っていただき、荒廃している教育現場を直視し、将来のあるべき教育制度の確立にぜひ取り組んでいただきたいと期待するのは私だけではないでしょう。> |
第21信 私の音楽活動 武井悠美子(ユミ・武井) 2007/11/29 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
私は15年ほど前、主人の仕事の関係で5年間パリに住んでいました。その時本場のシャンソンに出会い、心の底から感動させられたことを今でも忘れられません。すぐ門をたたき、シャンソンの勉強を始めました。 シャンソンは人の心を詩にして、それにちょっとメロディーを付けて出来上がります。人生を深く語り、そんなシャンソンに私はドンドンとのめり込んでいきました。この奥の深か~いシャンソンを現在も、またこれからもず~っと出来る限り歌っていきたいと思っています。 パリから帰り、東京のシャンソニエやライブハウスで少しずつ発表の場に恵まれました。シャンソンの生徒さんも付き、落ち着いた頃、主人が退職して、1年間バンクーバーに住んでみようと言われ、なんだか分からず骨休みに昨年12月中旬からバンクーバーに生活の根を下ろしてしまいました。 こちらに着き、毎日が鉛色の雨模様。とにかく歌を歌いたく、取り敢えず日本人女性コーラス40人ぐらいの「カトレア」というグループに入りました。半年ほどで大きな発表会を経験して辞めることにしました。それは自分の歌であるシャンソン関係のスケジュールが忙しくなってしまったのです。
加奈陀・晩香波(カナダ・バンクーバー)での産声婚式と出産祝い 1月下旬にプロのギターリストでバンクーバー在住の主人の甥が、小さなカフェでフルートとデュエットのコンサートを開きました。会場で、偶然隣り合わせの日本人のプロの女流カメラマンは、主人が近いうちにお会いする予定だった学校の大先輩、今泉さんの若奥様でした。お話をしているうちに、2月には写真展をやるのでそのオープニング・パーティーで私にシャンソンを歌って欲しいとの依頼を受けました。断ることの下手な私は、いつの間にかお引き受けすることに・・・。 それが私のバンクーバー初舞台となりました。甥たちのギター、フルート、クラリネットとオーボエの楽器演奏に続くステージを緊張しながら3曲歌いました。“還暦を過ぎて、海外でよくやるね!”とお客さんはきっと心配しながら聞いていただいたことでしょうね? きっと主人が一番心配だったに違いありません。
社会福祉団体 「隣組(となりぐみ)」のプログラムに2回の出演 日系カナダ人を対象にした、社会的諸サービスとプログラムを提供する民間の非営利の福祉団体ですが、1年に2~3回「コーヒータイム」という音楽プログラムがあります。カナダ人を含め、お年寄り・老若男女がお客さんです。3月と11月上旬の2回に出演しました。2回ともプロ・ギターリストの甥も賛助出演して場を盛り上げてくれました。
シニァになっても修行を怠ることなく 家での毎日の練習、テープ、CDによる先輩歌手のリスニングに加え、日系カナダ人の福祉団体の「日系プレース」企画の2つの訓練プログラムに参加しました。世界的に活躍なさった西沢忠秋教授の「歌声道場」で主に発声の特訓を受けておりました。発声は歌の最も基本となる練習で同門の人たちとも切磋琢磨する機会となりました。また、月1回の「金曜フォーラム」は、アメリカで大活躍の経歴のある日系ニ世のプロ・ジャズベースマン、 ハーリー青木氏が中心のアウトリーチ・プログラム。さまざまなジャンルの音楽愛好家が集まり、毎回3時間の練習は私の腕を磨く場となりました。 また、私の家では月2回シャンソン教室を開いております。生徒さんの年齢制限を設けていなかったのですが、全員が還暦前後の8人です(はじめは留学生の20代の音大卒の女性もいたのですが、既に日本に帰国しました)。楽譜の読み方、そして発声では大きな綺麗な声が出るように、そしてシャンソン用の発声をやり、エレクトーンを使った歌唱指導です。教えることも自分自身の勉強になります。生徒の皆さんは練習が終わった後の“Tea”と“おしゃべり”が大の楽しみのようです。
日系カナダ人の大邸宅でのホーム・コンサート 我が家のシャンソン教室で歌っているうちに、カップルの生徒さんの家でお客さんをたくさんお連れしてディナー付きの私のコンサートを開くことになりました。そのお宅は高台にあり、大きなガラス張りの向こうに入り江が見え、ヨットが浮かび、入り江の対岸には人家がたくさん見え、夜は小高い丘に宝石を散りばめたように明かり窓が見えます。まさに豪邸・・・。そんな素晴らしい風景が見える所で、大きなシャンデリアとキャンドルだけのホーム・コンサートができ、とっても幸せな気分になりました。 私のシャンソンが終わった後はダンス音楽が鳴りだし、多くのカップルがダンスに興じておられました。素晴らしい会になり、私の忘れられない思い出になりました。
次の4枚の写真は邸宅内をご紹介します。入り江を見下ろす丘の上に建てられ、玄関は最上階にあり階下に3フロアーが展開している構造です。部屋数もたくさんあり、オーディオ・ルーム、カラオケ・ルーム、シアター・ルーム、そして大ホール。また、油を使う料理用の特別のキッチンが別にありました。設計と内装のプランは1年がかりで、すべて奥様がおやりになったそうです。素晴らしいセンスです)
日系人のゴルフ愛好会「J.E.T.」と退職移住者の親睦団体「桜楓会」に恩返し 主人と私がシーズン始めの4月に入会したJ.E.T.の2007年の納会が11月10日ダウンタウンのホテルで開催され、ショーの最後を勤める役割で歌いました。普段家でお留守番の奥さんたちも多く参加され、懐かしそうに日本のシャンソンを楽しんでいただいたようです。また、1年限りの滞在にも拘らず、私たち夫婦が入会出来ました「桜楓会」は、色々なプログラムを通しお目にかかった多くの会員の皆様のお蔭で、大変有意義なバンクーバー滞在となりました。その2008年新年会(1月6日)で歌うことになっております。私の歌を楽しんでいただければ、少しでも皆様への恩返しになればと考えています。この新年会では、バンクーバー交響楽団の第一バイオリンを以前やっておられた日系人の演奏もあるそうです。これを最後に日本に帰る予定です。
音楽は世界共通語 短い1年でしたが、こんなに多くのことを経験できたことは本当にバンクーバーに住んでいらっしゃる心温かい方々のお蔭と心から感謝しています。幸か不幸か、私はこの地での労働許可が無いので、1年間ノーギャラで惜しみなく歌うことができたこと、私が無私になれたことを誰に感謝していいのでしょうか? 音楽は全世界共通のもので、どこの国へ行っても相通じるところがあるのだと、つくづく今回考えさせられました。 |
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