編集:岩田忠利 / 編集支援:阿部匡宏
NO.53 2014.5.25 掲載

 

教育 百日草の詩
教科書「ラジオ
コトバ」


                 投稿:栗原茂夫(港北区高田西 。著作「ドキュメント 少年の戦争体験」



  繰り返し音読した読本なのにまったく記憶に残らなかった教材がある。1年後期用の「ラジオノ コトバ」である。
  いま復刻本をたよりに丁寧に読んでみると、行間からさまざまな問題がみえてくるように思われる。短いので全文を紹介しよう。

     ラジオノ コトバ

  日本ノ ラジオハ、日本ノ コトバヲ ハナシマス。
  正シイ コトバガ、 キレイナ コトバガ、日本中ニ キコエマス。
  マンシュウニモ トドキマス。シナニモ トドキマス。
   セカイ中ニ ヒビキマス。


              島の少年にとって「ラジオノ コトバ」は…

  生家に蓄音機やミシンはあったが「ラジオ」はなかった。サイパン島いちばんの繁華街ガラパンに一軒だけラジオ店があった。当時の地図から知れるのだが、近くに発電所があったからであって、送電線のない第1農場でラジオが聞けるはずはなかった。(昭和13年(1938)の「ラジオ標語」の懸賞当選作が「不便な土地ほど便利なラジオ」だったそうだが…)。「ラジオ」を全く知らないわたしの当惑ぶりを想像していただけるだろうか。

  学級の仲間たちと交わす会話が「正シイ コトバ」「キレイナ コトバ」であったことは事実であった。わたしがそのことに気づいたのは、本土に来てから叔父の家から通った平塚の旭村の学校から大磯の国民学校に転校したのがきっかけだった。4年生だった。

  農家の子たちばかりの学区と違って、クラスには山の手の別荘のお坊ちゃん、商店の息子、漁師の子たちと、生育環境が実に多彩で、それぞれに言葉遣いが異なるのだった。翌年国民学校から小学校に変わった。男女共学となり民主教育がスタートした。符節を合わせるかのように言葉遣いの違いが少しずつ目立ち始めた。
 「君」「僕」だったわたしは「おれ」「おめえ」に変わった。その方がいい間合いで付き合えそうな気がしたからだ。漁師の子が父親のことを「さもじ」という言い方をすると、それが新鮮に聞こえ、仲間の言葉をできるだけ覚えようと努めた。(ちなみに母親を「ばした」と言った)学校から戻ると、覚えたばかりの仲間言葉を弟と披瀝し合った。母が聞きとがめて「それは汚い言葉だよ」とたしなめたのだが、山から拾ってきた収穫物の木の実を互いに見せ合うようなワクワク感を味わっていたのだった。気脈が通じ合い世間が広くなっていくようで、わたしたち兄弟はもう「君」「僕」に戻れなくなっていた。


 
            日本語を「大東亜共栄圏」の共通語に…

  サイパン島のアスリート国民学校の同級生のほとんどは沖縄からの移民の子だった。「創氏改名」により日本名を名乗っていたが、朝鮮半島出身の子もいた。内地からの移民も山形県・福島県・鹿児島県などみな出身地を異にしていた。北海道や外地の日本人学校ではみな標準語か、それに近い日本語を話すと聞いていたわたしは、サイパンでも同様の事情から「正シイ コトバ」が使われていたものと思いこんでいた。認識不足のまま当サイトの「ドキュメント 少年の戦争体験」を執筆したのだった。

  最近何冊かの近現代史をひもといていて従前の判断が誤りであったことに気づいた。
  じつは、日本語を「大東亜共栄圏」の共通語にするという壮大な計画が実行に移されていたのだった。


戦時下の国語の教科書から

 国民学校国語教育では「読ミ方」「書キ方」「綴リ方」に「話シ方」が新たに加わった。「話シ方」には「併セテ聴キ方ノ練習ヲ為スベシ」と「聴き方」も含め「読ミ方」「綴リ方」の授業のなかで取り扱うことが求められている。音声言語指導のための教師用教科書として「コトバノオケイコ」が使用されたが、それは正しい日本語を話す実践が主眼であって、地方の訛りや方言は厳しく矯正された。

 1年生の時だったかと思う。朝礼が始まる直前いきなり担任の先生に言われて朝礼台にのぼった。暗唱できるようになったお話を全校児童の前で話すように…ということだった。マイクはあるはずもなく、大きな声ではっきり話すのは荷が重かった。聞き手の集中力は申し分なかった。「話シ方」「聴キ方」指導のヒトコマだったのだと思う。

 ラジオの普及がすすみ、農村漁村でもラジオを購入するようになった。(出征兵士の家の聴取料は免除された)そうなるとラジオも戦争遂行のための番組を編成するようになった。
 「早朝ニュース」は戦況を伝えた。「ラジオ体操」は、強い兵士となるために身体を鍛えるという意図のもとで継続された。
 ラジオ放送の経営は日本放送協会から実質的には国家官僚の手に移り、ますます戦時体制確立に活用されていった。

 子どものためのラジオ番組もあった。放送にあわせて「ラジオ 子供のテキスト」も発行されたという。
 文部省が「学校放送を適宜利用すべし」と勧告、国民学校になって学校放送を授業に組み入れる動きもあったようだ。
 ともあれ、ラジオのない教室で学んだ島の少年にとって「ラジオト コトバ」はほとんど無意味な教材だった。

 戦時中、植民地のほかアジア、太平洋の占領地で日本語が強制されていたことを書物によって知ったわたしは、いまさらながらアスリート国民学校で机を並べた級友たちのことに思いをはせることになった。
 平素、吉田マンジュウ君や大山イチリュウ君が朝鮮半島の出身であることを意識するような場面はなかった。正しい日本語の話し手だったから…。

 1941年「朝鮮国民学校令」によって韓国併合以来続いてきた「朝鮮語」の教科を廃止し、学校での朝鮮語による教授が禁止されたのだった。目的は日本語の通じる兵士を徴兵することにあったという。

 1年前期用の読本にカクレンボの教材があった。

 カクレンボスル モノ、ヨットイデ。ジャン ケン ポン ヨ、アイコ デ ショ

 モウ イイ カイ。 マアダ ダヨ。モウ イイ カイ。モウ イイ ヨ。

 学芸会で即興の「カクレンボ」を演ずることになった。鬼のわたしが「マンジュウ 見つけた!」と大声を発するや会場が爆笑に包まれた。「マンジュウ」が彼の本名ではなく創氏改名による日本名だとは知らなかったのだ。
 日本語を強いられ「マンジュウ」と呼ばれた吉田君はどんな気持ちで学校生活を送っていたのだろうか。
 ともあれ、わたしの胸に刺さったトゲである。


 
         近年の朝鮮半島や沖縄に対する意識は…

 今朝の新聞(平成26525日 神奈川新聞)に「朝鮮半島に伝わる伝統芸能 児童ら元気に舞い披露」の見出しで川崎の児童らが運動会で朝鮮半島に伝わる「プンムルノリ」という音楽と踊りを披露したとあった。
  指導にあたった崔江以子さんの「朝鮮半島の文化を一緒に体験することで、互いの文化を大切にする気持ちが生まれる」というコメントには大いに共感を覚えた。

 級友の大半は沖縄からの移民の子たちだった。沖縄は植民地に似た側面があって本土との間に差別があったという。
 「沖縄出身兵は言葉に不自由」とも言われ標準語の強制、皇民化運動は非常に徹底していたと聞く。沖縄出身の級友たちもみな「正シイ コトバ」「ウツクシイ コトバ」を使っていた。その過程においては柳 宗悦らの標準語強制使用に対する批判をはじめ沖縄方言論争があったということも書物で知った。

 わたしの「君」「僕」も結局は皇民化教育の成果だったのだろうか。


 参考にした書物
   

「子どのの昭和史」平凡社  「20世紀 戦争編」読売新聞社
「昭和史全記録」毎日新聞社 「日本教育小史」山住正巳・岩波新書他

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