子どものためのラジオ番組もあった。放送にあわせて「ラジオ 子供のテキスト」も発行されたという。
文部省が「学校放送を適宜利用すべし」と勧告、国民学校になって学校放送を授業に組み入れる動きもあったようだ。
ともあれ、ラジオのない教室で学んだ島の少年にとって「ラジオト コトバ」はほとんど無意味な教材だった。
戦時中、植民地のほかアジア、太平洋の占領地で日本語が強制されていたことを書物によって知ったわたしは、いまさらながらアスリート国民学校で机を並べた級友たちのことに思いをはせることになった。
平素、吉田マンジュウ君や大山イチリュウ君が朝鮮半島の出身であることを意識するような場面はなかった。正しい日本語の話し手だったから…。
1941年「朝鮮国民学校令」によって韓国併合以来続いてきた「朝鮮語」の教科を廃止し、学校での朝鮮語による教授が禁止されたのだった。目的は日本語の通じる兵士を徴兵することにあったという。
1年前期用の読本にカクレンボの教材があった。
カクレンボスル モノ、ヨットイデ。ジャン ケン ポン ヨ、アイコ デ ショ
モウ イイ カイ。 マアダ ダヨ。モウ イイ カイ。モウ イイ ヨ。
学芸会で即興の「カクレンボ」を演ずることになった。鬼のわたしが「マンジュウ 見つけた!」と大声を発するや会場が爆笑に包まれた。「マンジュウ」が彼の本名ではなく創氏改名による日本名だとは知らなかったのだ。
日本語を強いられ「マンジュウ」と呼ばれた吉田君はどんな気持ちで学校生活を送っていたのだろうか。
ともあれ、わたしの胸に刺さったトゲである。
近年の朝鮮半島や沖縄に対する意識は…
今朝の新聞(平成26年5月25日 神奈川新聞)に「朝鮮半島に伝わる伝統芸能 児童ら元気に舞い披露」の見出しで川崎の児童らが運動会で朝鮮半島に伝わる「プンムルノリ」という音楽と踊りを披露したとあった。
指導にあたった崔江以子さんの「朝鮮半島の文化を一緒に体験することで、互いの文化を大切にする気持ちが生まれる」というコメントには大いに共感を覚えた。
級友の大半は沖縄からの移民の子たちだった。沖縄は植民地に似た側面があって本土との間に差別があったという。
「沖縄出身兵は言葉に不自由」とも言われ標準語の強制、皇民化運動は非常に徹底していたと聞く。沖縄出身の級友たちもみな「正シイ コトバ」「ウツクシイ コトバ」を使っていた。その過程においては柳 宗悦らの標準語強制使用に対する批判をはじめ沖縄方言論争があったということも書物で知った。
わたしの「君」「僕」も結局は皇民化教育の成果だったのだろうか。
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参考にした書物
「子どのの昭和史」平凡社 「20世紀 戦争編」読売新聞社
「昭和史全記録」毎日新聞社 「日本教育小史」山住正巳・岩波新書他
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