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オッと危ない! 右が黒川さん。
菊名・錦が丘の東横線踏切。
本誌21号「菊名特集」から |
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現役当時の黒川一郎さん |
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“伝統こけし”1000体を所蔵の
黒川さん
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こけしに囲まれご満悦の黒川さん。菊名の自宅で。本誌60号から |
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ベンツで現れたお客さん
編集室の前にピカピカの黒いベンツが停まった。そんな外車の高級車のお客さんは初めて。可愛い小型犬を抱いた紳士が笑顔で入って来られ、用件を話した。
「今までの『とうよこ沿線』のバックナンバー全冊が欲しいのですが・・・」。
菊名・錦が丘にお住まいの黒川一郎さんという方でした。そのときの柔和な笑顔が今でも印象的だ。本誌に興味をもたれた理由を尋ねると、その答えは「じつは、私が写っている写真が21号の菊名特集に載ってるのを見て、ビックリしましてねぇ~」。
改めて21号を調べると、黒川さんらしき人が写っているのだった。その写真は東横線の電車が通過した後、踏切の遮断機が上がるときの通行人の表情を捉えたシーン。私が撮った写真(左)だった。
撮られた人と編集室とを結ぶ不思議な縁
この誌面は「あの時、あの場所」という連載で、各駅周辺の街行く通行人の姿を無差別に撮って本誌に載せるという至って奇抜な企画であった。いわゆるフォーカス、その走りかも。
今なら、個人情報問題とか肖像権問題で猛烈な抗議が寄せられるのだろうが、当時は“撮られた人”から大変喜ばれたものだった。
誌上掲載されたご本人には編集室がその写真をキャビネ版に伸ばして進呈したりや東急文化会館上映の映画無料招待券、さらに“讃岐うどん店”の飲食券やバックナンバー3冊進呈と数々のプレゼントをしたのだった。
毎号30枚ほどの写真を3ページで紹介、その一枚の写真が編集室と撮られる人とを結ぶ不思議な巡り合わせとなったケースも、かなり多かった。黒川さんと私との関係も、そんな不思議なご縁で結ばれたのだった。
日本の伝統文化を大切にする黒川さんは“こけし”収集家
当時の黒川一郎さんは、日本勧業銀行の長い重職を退き、日本のレンタカー会社の最大手、ニッポンレンタカー・サービス㈱の社長をされていた。その黒川さんは日本の古き良き伝統文化や歴史を大切にされる読書家である。
黒川さんは48年前の昭和36年、銀行の支店長時代、友人から1本の“こけし”をお土産にいただいた。そのこけしの表情がなんとも言えない優雅な顔をしていた。以来、その魅力に惹かれた黒川さん、次々各地のこけしを買い集めた。気がつけば、その数、なんと1000体にも・・・。大きさは大小さまざま。その表情も笑顔、おしゃまな顔、おすましな顔、さわやかな顔・・・同じ表情のものは二つとない、まさに十人十色。この膨大な量のこけしを奥様朝子さんがその一体一体、乾拭きするだけでも大仕事だ。
日本の伝統文化、こけしには「伝統こけし」「近代こけし」「お土産こけし」の3種類あるそうだが、黒川さん収集のこけしは、東北6県だけで作られる“伝統こけし”。東北地方の鳴子・土湯・津軽・蔵王高湯などの温泉場中心に10系統の流派があるのだとか。その“工人”たちは親が子へ、子が孫へと連綿と伝え、寸分たがわず同じ顔を描き続ける。
黒川さんは東北出身の女性の顔を見れば、何県の出身だか分かるという。それはなぜ? 黒川さん流に言えば「こけしの顔はその地方の女性の最大公約数」なのだそうだ。
銀行支店長時代、初対面の若い女性の出身地を的中し、彼女たちをびっくりさせることが何度もあったという。こけし収集家、黒川さんの奥は深い。
岐路や難問のたび、私の指南役
そんな探究心旺盛な黒川さんには『とうよこ沿線』が岐路や難問に直面するたび、私は遠慮もなく黒川さんに電話した。
「じつは、こういう○○の理由でこの場をどのように乗り切ったらいいか、相談に乗ってもらいたいのですが・・・」
毎号毎号、崖っぷちを歩くような体験の連続。一歩足を踏み違えば谷底へ転落、明日がない。つまり、廃刊か存続かのギリギリの道を綱渡りのように歩いてきた。
今だからこうした話を公表できるが、周囲の会員諸君には話せない。動揺するばかりで、かえって逆効果である。こんなときは、黒川さんに実情を率直に話し、二人でその解決策を練ったのである。
黒川さんは銀行の支店長時代、たくさんの中小・零細の会社社長と接し、その実態に精通し、危機脱出のノウハウをよく心得ている方だった。
私の話を静かに紙にメモしていた黒川さんが言う。「岩田さん、こうしましょう!」。黒川流解決策が閃いた。なるほど・・・。それは、私には思いもつかない妙案である。
銀行や印刷所との交渉、『とうよこ沿線』の法人化、「えんせんシニアネット」の立上げなど、そのたび世事に疎い私に親身になって貴重な助言を与えてくださった。また、あるときは私と一緒に相手先に出向いてくださり、あるときは自ら先方に出向き、交渉し解決してくださった。黒川さんは、私にとってまさに“指南役”であり、“恩人”。
この「黒川さんの巻」を書く段になり、この連載のタイトルを替えることにした。先の見えない道に次々立ち塞がる難問、これをいかに乗り切り、先に進むか・・・この難題という“峠”の連続だった。過ぎ去った道を振り返るとき、「いくつ峠を越えたかな」の心境である。
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