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第33号デスクキャップ当時の
石野英夫さん

国際的(?)“即興舞踊家”は
今宵も踊る


編集室の打ち上げパーティーで




第22号「多摩川特集」
初の石野作品



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 酒が入るとマコちゃんに変身

 編集室前に車が停まり、中から3人の大人が出てきて、編集室のドアーを開けた。ご主人に奥様が付き添い、長男が車を運転してきたのだった。
 ご主人の石野英夫さんはキヤノン本社を定年退職したばかりで、これから毎日自宅で無為に過ごすのではなく、好きな絵を描いてその作品を『とうよこ沿線』に載せられるようになれば、さぞ楽しい日々を送れるのではないか・・・と話すのは社交的な奥様、ユキさん。
 石野さんの性格は、あまり社交的ではなく家族以外の人と話すのが苦手で、奥様が付き添ってきたのだという。でも、お酒が入ると陽気になり、酒場の女の子には女優・石野真子にあやかって“マコちゃん”の愛称で呼ばれていると奥様は笑いながら付け加えた。

 昭和9年崎陽軒売り出しのシウマイ弁当、最初の掛け紙は、石野少年作

 石野さんの自宅は、編集室から自転車で10分とかかからない中原区井田。自宅の離れに専用の書斎があり、そこで石野さんはいつも好きな絵を描いたり、調べごとをしたりしていた。石野さんの亡き父上は石野東耕さんというかなり名の通った日本画家。その血を引く石野さんも、筆やペンを持たせたらどんなものでも見事に表現する才能があった。
 現在の千葉大学工学部デザイン科の前身を卒業した石野さんだったが、大学入学前の旧制の川中(現・県立川崎高校)時代、崎陽軒があの横浜名物、“シウマイ弁当”や“寿司弁当”を初めて売り出した昭和9年、その“掛け紙”をデザインしたのが、“石野少年”だった。戦後の混乱期、大学を卒業しても就職口が無い頃、駐留米軍に頼まれ横浜駅前の巨大な看板や映画の看板も石野さんが手がけたものだった。

 「わが街シリーズ」のイラストマップは看板ページ

 石野さんはたいへん几帳面で誠実、責任感のある人だ。入会したその号の特集「多摩川」の河口・羽田沖から小田急線の鉄橋あたりまでの両岸を5ページのイラストマップを描いた。東京側と川崎側の両岸を歩き、建物や施設、名所などを地図で確認し、人物や魚なども配し、見て楽しい労作だった。おかげで読者の反響は非常に大きかった。
 それ以来、東横線の渋谷から桜木町までや大井町線、池上線、目蒲線(現・目黒線)の各駅周辺を連載特集してきた「わが街シリーズ」は、石野さんのイラストマップ5ページの大作で飾ってきた。
 石野さんを私が車に乗せ、街の隅々を回って案内し、めぼしい物は石野さんがスケッチしたり写真を撮ったりして、書斎で地図と丹念に照らし合わせながら制作する。
 このイラストマップは、号を重ねるにつれ人気が出て、いつしか『とうよこ沿線』の“看板ページ”となった。また、地図の正確さから各駅の駅前交番のお回りさんが“道案内”用に交番に置いて使っていた。
 石野さんに私が頼むものは、次々あった。イベントのたびに掲げる大きな垂れ幕や横断幕、掲示物の小物の数々。それをほとんど一日か二日で仕上げて自転車で編集室まで届けてくださるのである。そうした石野さんはイベントにも欠かせない重要な存在だった。

 当意即妙、“石野パフォーマンス”は国際的(?)

 ここで石野英夫さんの“国際的な特技”をご披露しよう! 
 ふだんの石野さんは寡黙でおとなしく、借りてきた猫のようだ。何かと理由をつけては開く編集室のパーティー。30分ほど飲むほどに、静かな石野さんが口元で異様な音を発するのだ。「チュ、チュ、チュ・・・」と舌を鳴らす独特の仕草。これが、これから始まる“石野パフォーマンス”の呼び鈴である。それを心得た私は、カセットで音楽を流す用意をするのだ。
 学生、会社員らの若手スタッフに、主婦や中年男性、シニアたちが所狭しと揃い、飲んで喋って和気あいあい。そんな盛り上がった最中、突如中央に出てダンスを始めるのが石野さん。眼は感情たっぷりにうっとり、澄ました顔で指先をしならせ、肢体をスローに動かす哀感漂うダンス・・・。
 予期せぬアトラクションに、みんながしばし呆然。その後、“借りてきた猫”の石野さんの豹変ぶりに笑い転げて大爆笑・・・。でも本人は、顔色一つ変えず平然と踊り続ける。曲目が演歌になれは演歌風に、シャンソンになればフランス人になりきって、どんな曲でも当意即妙のフリで妙技を披露するのである。

 赤坂の有名ナイトクラブで会社の同僚と飲んでいたときのこと。例のごとく、酔うほどに飛び入りでステージに立ち、バンドをバックに華麗な演技を始めた。ステージマネージャーの指示で照明係が美麗なカクテル光線を当てると、満場のお客からヤンヤの拍手喝采・・・。
 と、蝶ネクタイの総支配人が飛んできて、ステージの下で無心に踊る石野さんに向かって、
 「プロの方が勝手にステージに上がっては困ります! 早く降りて、お帰りください!」。
 お勘定を済ませ、同僚と二人で裏口から出る石野さんを追いかけてきた総支配人は言った。
 「先ほどはたいへん失礼しました。余りに見事なダンスに照明責任者がプロの方と間違えて照明を当てさせてしまいまして・・・」。石野さんのダンスは赤坂の有名クラブの“お墨付き”なのである。
 定年後、キヤノンOB会の香港旅行の際、観光船の船上レストランのステージで石野さんは踊った。そのときも、ミスター・イシノはサインをねだられるやら、記念撮影を頼まれるやら、国際親善に一役買ったのである。

 スタッフの誰からも親しまれ愛された石野英夫さんは、平成13年8月5日肺気腫のためご逝去された。享年84歳。棺の中の故石野英夫さんは全身を『とうよこ沿線』のバックナンバーに包まれ、彼岸へと旅立ったのだった。
 
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no.41
親しまれ愛された“マコちゃん”
本誌編集発行人 岩田忠利

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