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横浜高島屋の広告 |
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廃刊の岐路に立つ。最後の恩返しの企画 |
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昭和57年3月28日御殿場・富士見窯で童心に返って陶芸に興じる一行 |
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散号(3号)雑誌にならず横浜高島屋へ
横浜高島屋の課長の教訓「散号(3号)雑誌にならず、創刊一周年記念にまた会いましょう!」その言葉どおり、3号を突破し、4号・5号と続き、約束の創刊一周年記年号の裏表紙の広告ご提供のお願いに横浜高島屋宣伝部の鳥羽課長を訪ねた。
「よくやりましたね〜!」と課長の開口一番。そして「また来年7月に会いましょう!」私と義母の手を取り、握手して労いの言葉を掛けてくださり、来年の広告提供の約束も。
支援の会員・広告主・読者と私生活の狭間で苦悶
その後、7号、8号、9号、10号と編集面は快調だった。しかし、私の心の中は晴れなかった。過去3号分の高額のカラー広告代金の大半が入金されず、編集室の台所は“火の車”だった。印刷所への支払いは貯金を下ろし充当し、不足分は義母に支払ってもらったりして何とか当座をしのいでいたのだった。「もう、これ以上『とうよこ沿線』を続けるのは止めて欲しい!」家族の猛反対を浴びる毎日だった。
これまで編集や配本に真剣に協力してくれた会員、「編集には協力できないが、小さな広告で発行に力になりましょう」と言ってくれた広告主の皆様、毎号の発行を楽しみに待ち続ける愛読者の方々・・・皆様の顔が次々私の脳裏に浮かび、今まで続けてきた地域雑誌としての社会的責任をもあわせ考えると、「廃刊」の言葉は、私にとって何よりも辛く、断腸の思いだった。しかし、家族あっての私生活。その狭間で毎晩悩み苦しんだ。
最終号を覚悟し会員・読者の集い
「よ〜し、悩んでいても道は開けない。これが最後になるかも・・・。ご恩返しのつもりで読者と会員のみんなに呼びかけ、気分転換しよう!」と思い立ったのが、10号掲載のこの企画”。
「“とうよこ沿線”会員・読者の集い・・・《早春の丹沢湖と富士見窯見学の一日陶芸教室》」。
貸切の大型バスの定員がすぐ埋まった。快晴のさわやかな早春、朝8時。高知の漁師町の旗屋に特注で頼み、届いたばかりの“「とうよこ沿線大漁旗”。これを目印に参加者全員が集まってバスに乗り込んだ。補助席までぎっしり満席だ。
車中は飲んで歌って大はしゃぎ・・・。丹沢湖畔での昼食後は、私の友人が経営する、渓谷のある大自然の中の1万坪の御殿場の陶芸センター、“炎の里 富士見窯”をめざす。着くや否や、子どもたちは土筆(つくし)採りに興じたり、ふきのとう採りに走り回ったり大喜び。百人でも二百人でも一同に陶芸できる総ガラス張りの作陶場では思い思いの作品作りが始まった。大人も生まれて初めてドロンコ遊びをする子どものように童心に返ってワ〜ワ〜、キャア〜キャア〜・・・。そんな時間はあっという間に過ぎ、帰りの車中はイビキが聞こえる静けさ。みな一日を堪能した春の終日だった。
依然として私の心は晴れなかった。帰った翌日、まさかこんな事件が待っているとは!? それは、まさに青天の霹靂だった。
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