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昭和56年10月4日の元住吉西口商店街で開いた「移動編集室」にアラビアンスタイルの仮装で登場した前川さん(中央)。手前は前川さんが東京から連れてきた、通りで将棋を打つ友だち |
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連載「とうよこ沿線物語」の第1回「渋谷〜代官山」の一部誌面 |
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沿線っ子の前川陸軍中尉
創刊の翌春、白髪まじりのすらっとした品のいい紳士がバックナンバーを買いに訪ねてきた。目黒郷土研究会の役員で、役員会の席上で『とうよこ沿線』の創刊号が配られ、体裁、内容が大変立派な本だと思ったそうだ。次の会合でも新刊が配られ、ますます内容が充実しているのにビックリし、バックナンバー全冊を揃えたくなって買いに来たという。
その場で入会申込手続きを済ませ、編集仲間になった前川正男(ただお)さんである。代官山駅近くで生まれ、都立大学駅近くに住む生粋の“沿線っ子”。学生時代、旧制の“横浜高等工業学校(現横浜国立大学工学部)”に入り、3年間東横線で通学したので、この沿線には人一倍の愛着があるのだそうだ。
青年時代は兵役で“陸軍中尉”まで上り詰めた人。休暇で帰って東横線に乗ると、「エラい軍人さんが乗っていらっしゃる!」と乗客の注視の的だった。バリッとした軍服に身を包んだハンサムな前川陸軍中尉の姿は銀幕から飛び出した俳優のようにひときわ目立った。
「呑川物語」の著者で“目黒区の有名人”
初対面のその頃、前川さんは“目黒区の有名人”だった。彼は目黒郷土研究会の会報に目黒区内の八雲・柿の木坂・中根・大岡山の各町内を流れる呑川沿線の自然、史実、世相、人情、逸話などを取り上げた連載「呑川物語」を3年余り書いてきた。
その中に「マリちゃんの家」という話があり、読んでみた。その家は前川さんの家から50メートルほど呑川を上流に上った呑川西岸にあった。マリちゃんとは、女優・岡田茉莉子(本名吉田鞠子)のことで、父は戦前の二枚目俳優の岡田時彦、母は宝塚のスター・田鶴園子。
ヘぇ〜? そんな俳優、3人とも知らないよ、という方がいるかも。でも、恐らく岡田茉莉子は見覚えがあるという方は多いだろう。
当時の呑川周辺は緑が多く、オゾン豊富で肺結核に効くというので、呑川西岸には日当たりの良い縁側つきの平屋の家が連なっていた。マリちゃんの家も父・時彦が肺が悪く、その家並みの一軒に引っ越してしてきた。そこで彼女は昭和8年1月11日に生まれ、呑川の水で産湯につかった。つまり、彼女も“生粋の東横沿線っ子”なのだ。無声映画末期の美男スター・岡田時彦は毎日厚いマスクをかけて彼女を抱っこして散歩し、可愛がっていた。しかし不幸にも、彼女が1歳のとき、父と死別するのだ。
前川さんはそんな呑川沿線の話をまとめて自費出版した。それが『目黒区報』に紹介され、区内で評判になり、著者・前川正男の名は目黒区の郷土史家として一躍高名に。
前川さんが仲間になったことは、今まで手薄だった“東京側情報源”として一気に戦力アップ、私の士気もいっそう高まったのである。
連載「とうよこ沿線物語」の執筆者に
編集会議やイベントに必ず顔を出す前川さん向けに私は新しい誌面を企画した。渋谷駅から桜木町駅までの23駅周辺の史実や話題を取り上げた「とうよこ沿線物語」の連載を彼に提案した。
「これは、面白い! 長丁場の大物ですね〜。私のライフワークにします!」と前川さんはやる気満々、喜んだ。前川さんが弱い神奈川県側の川崎市内や横浜市内の題材は、私が考え、取材先を車で案内するという約束で、第6号“榎”から「第1回とうよこ沿線物語『渋谷〜代官山編』がスタートした。それから最終編「桜木町」まで3年を要して第24号で完結したのだったが、その反響はスサマシかった。
糖尿病が持病だった前川さんは、三木鶏郎(作詞作曲家・放送作家)とのコンビで「糖尿病友の会」を設立し全国の患者とその病を逆手に取って楽しんでいたが、平成18年安らかな寝顔で最期を遂げた。享年91歳。
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