no.26
壮大なロマンをもつ、経済学界第一人者
本誌編集発行人 岩田忠利

★写真はクリックして拡大してご覧ください

タイトル/画像 本文
多芸多才な越村信三郎先生(横浜国大元学長。経済学博士)


創刊2周年記念パーティーで「菩提樹」をドイツ語で歌う越村先生
昭和20年6月5日
神戸空襲の絵


戦時中、大阪港の船舶司令部の経理部にいた頃、私はトラックで荷物輸送をしていた突然、爆撃!
たちまち周囲に死体や首のない人間、この世の地獄絵を見た。難を逃れた私は、直ちにこの鮮烈な場面を描いておいた
 
 毎号のようにご協力くださった横浜国大元学長・越村先生

 妙蓮寺駅に程近い港北区富士塚に住む越村信三郎先生(元横浜国立大学学長。経済学博士)には創刊号以来、毎号のように執筆や講演、イベントにとご協力いただいた。
 第2号の「わが町 妙蓮寺」という連載ページを始めるとき、まず越村先生宅に初めてうかがい原稿執筆をお願いした。快諾された先生は私にご親切な言葉をかけてくださった。

 長洲一二神奈川県知事の紹介者

 「岩田さん、長洲神奈川県知事に越村の知り合いだと言って会ってきなさいよ。私が創刊号の『とうよこ沿線』をあげておきましたから・・・。あの方とは親しい間柄です」。
 越村先生はマルクス経済学の大家で、近代経済学と統一させた新しい経済循環を数学的に解析した「マトリックス原価計算」という本を出されて脚光を浴び、ノーベル賞候補者に挙がったこともあった。長洲知事は越村先生が横浜国立大学の学長時代、経済学部教授で経済学部部長だった。

 学長就任時、国会の予算委員会の参考人に

 越村先生が学長に昭和45年(1970年)に就任した当時、学生運動が盛んで、たいへん苦労したようだ。「京浜安保共闘」という過激な左派組織が栃木県の“真岡銃砲店”を襲撃し、大量の銃と銃弾を強奪する事件が起きた。その京浜安保共闘が赤軍派と合流し「連合赤軍」となり、その銃砲を使ったあの「浅間山荘事件」につながった。その京浜安保共闘の幹部数人が横浜国立大に在籍する学生ということで、越村学長は国会の予算委員会に“参考人”で呼ばれ、いろいろと厳しい質問を国会議員から浴びせられたという話は、先生の著書で読んだ。

 行きは東海道、帰りは中仙道を踏破。その画集も圧巻!

 ある夏の午後、越村先生宅を訪ねると、「暑いですね〜。岩田さん、冷たいものを飲みましょうか?」と言って、奥からニコニコしながら2本のビンを持ってきて「これを“シンザ・ブロニカ”と名づけ、愛飲しているんですよ」。“信三郎”が考案した炭酸飲料とウイスキーの甘口のカクテルで「シンザブロニカ」、飲むほどに先生は陽気になってご自身の学生時代の話をされた。
 先生は東海道五十三次を踏破し、その足で帰りは129里、67宿場の中仙道を歩いて日本橋に帰ったという超人的健脚の持ち主だった。その後、独りで日光街道も・・・。途中立ち上がって書庫から一抱えもあるスケッチブックを持ってきた。そのうち数冊は道中の景色や出来事、珍しいものを描いた“画集”。
 その軽妙なタッチの絵に目を見張った。プロのイラストレーターを凌ぐような作品であり、当時の人々の暮らしや町の様子を描いたその風俗画は貴重な“文化的資料”だと思った。あのとき、私はあの絵を、なぜ『とうよこ沿線』での連載を越村先生に頼まなかったのだろう? 私は今でも後悔している。

 背丈より高い自著に作詞作曲も

 先生の財産は書庫。「自著が自分の背丈よりも高くなった」と言って微笑んでいた本と膨大な書籍もろとも、先生の死後、遺族の火の不始末で火災に遭い、灰になってしまったからである。
 左の絵は第14号の「イラスト・マンガ大会」入賞作品特集に参考作品として掲載した越村先生の作品。
 越村先生は作詞・作曲もなさる。阪神タイガースの応援歌「六甲おろし」のメロディーは、越村先生の作曲のようだ。先生が戦後作詞作曲した「横浜高商(横浜国立大学経済学部の前身」応援歌とメロディーがそっくり同じものだ。
 昭和63年初秋病に倒れ、二度の開腹手術もむなしく危篤状態に陥った。忍び寄る死の影を感じながらも先生は冷静に死と対峙し、ふるさと金沢から病院に駆けつけた親族の呼びかけに言葉を発した。
 「私の、私にとっては、死とは何を意味するのであろうか」。これが昭和63年11月27日、先生の臨終の言葉だった。享年81歳。
 告別式は鮮烈に私の胸に焼き付いている。先生の棺は越村ゼミの“越村会”の教え子たちが合唱する故人作詞作曲の歌に送られ、自邸を静かに去って行った・・・。

 
  さくいんページに戻る   次ページへ
  「とうよこ沿線」TOPへ戻る