本誌編集発行人 岩田忠利

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no.20
漫画家との破天荒なお付き合い
タイトル/画像 本文
漫画家・井崎一夫先生

日本漫画家協会創立記念パーティーの
スナップ写真から



帝国ホテルのパーティー会場内を練り歩く井崎先生扮するチンドン屋



日本漫画家協会創立記念パーティー、帝国ホテルで。中央の私の右にチドンヤに扮した井崎一夫先生。その右が義母・鈴木善子。ほかも有名な漫画家さんだが、上手い変装で名前が分からない



海軍大将に扮した大スター・三船敏郎と作曲家・服部良一
 
 漫画家・井崎一夫先生との出会い

 井崎先生と知り合ったのは、「わが母校シリーズ」にトキワ松学園を取り上げるため、事前に同学園を訪れ、辻忠二郎副校長とお会いした。辻副校長は武蔵小杉の市ノ坪に住み、話題が豊富で同学園の卒業生のこと、地域のことなどいろんな話をされた。その中で校門前に住んでいる、同学園の父母会の元会長である漫画家・井崎一夫先生の話題が出て、辻先生はさっそく名刺の裏に「知人の岩田忠利さんを紹介します」と書き、私に井崎先生を紹介くださった。

 編集室に帰り、漫画家・井崎一夫なる人物の略歴やマンガの画風などを調べた。その画風は洒脱なタッチの中に温かみと親しみがあり、私がこれまで抱いてきた『とうよこ沿線』の表紙のイメージにピッタリだった。
 翌日には先生宅を訪ね、井崎先生とのお付き合いの第一歩を踏み出した。如才ない先生に、その場で第7号“橘”の表紙絵をお願いした。さらに、作品の仕上がり日まで約束して帰ってきたのだった。
 
 ここで井崎先生の横顔を紹介しよう。戦後の世相を敏感にキャッチした「4コマ漫画」で一世を風靡し た漫画家である。大正4年、北海道・苫小牧市に生まれ。室蘭中学(現・室蘭栄高校)を卒業後、昭和9年か ら、日本漫画界の重鎮・北沢楽天に師事。戦後は「漫画集団」の一員として、4コマ漫 画などを新聞や雑誌に数多く発表。7年半にわたって週刊誌に連載した代表作「カミナリさん」をはじめ、 その時々の世相や風俗をとらえ、ユーモアと風刺で表現した「不満リブ婦人」 「暴走タクシー」などがある。

 原稿締切日を守ったことがない人

 仕上がりの約束日、先生宅を出来栄えを楽しみにうかがった。頭髪をなでながら現れた先生いわく「多摩川の絵を描こうと現地へ行ってみたが、なかなか、まとまらなくてね〜、あさってには出来上がるでしょう!」。
 その明後日、再度うかがうと、和紙に描いた多摩川岸で散策する親子の絵5〜6枚を持ってきて「どれも、しっくりいかなくてね〜、出来上がったら日吉の編集室までワシが持って行きますよ」だった。世に出す作品を自分で納得するまで何枚も描く“芸術家肌”の先生であることを、このとき初めて知った。初回の原稿依頼のときはそのようによく解釈していたが、1981年発行のこの第7号以来、1985年の第26号までの表紙絵を描いていただく5年間というもの、井崎先生は原稿締切日を一度も守ったことがなく、最低3度は催促してようやく表紙絵の原稿が手に入るというじれったい先生だった。

 困った酒癖

 井崎先生を語るには“酒”の話は欠かせない。表紙絵の原画を持ってきた時、表紙絵の舞台を何カ所か車で案内し編集室に帰ってきた時、一年で家族が最も忙しい大晦日に毎年我が家にやって来る。こんな時、井崎先生は根っからお酒が好きそうで、酒が出るまで腰を上げない。それも、へべれけになるまで飲むのである。二人で飲んだ回数は何十回、あったことだろうか。先生の宴席での飲み始めは柔和でニコニコしている。飲むほどに、酔うほどに先生の話はくどくなり、酒席が延々と何時間も長引く。そして最後は悪酔いして好戦的になるのが玉にキズだった。

 宴席での井崎先生の印象的な話

 先生はふるさと、苫小牧が生んだ“名士”。苫小牧に帰ったのは、昭和三十年代の半ば頃のことだ。戦後「日本のゴッホ」とか「裸の大将」と呼ばれていた、知的障害のある放浪の画家、山下清の展覧会が全国巡回展の一会場として苫小牧のデパートで開かれていた。その夜、帰省中の井崎先生も交って地元の画家たちが「山下清画伯を囲む会」を催し、会食をした。山下画伯の世話役に山下清の実弟が同席し、みんなの視線は画伯の一挙手一投足に注がれていた。まず画伯は上着と靴下を脱ぎ、きちんとたたんで床の間に揃えた。
 画伯が出席者の質問にどんな返事をするか、みんなは興味津々だった。ある人が訊いた。「センセイ、苫小牧に来て、いちばんびっくりしたことは何ですか?」。「うんだな〜、社宅(苫小牧製紙)のテレビのアンテナがたくさんあったことだナ」と即答した。
 出席者の一人で、画伯と同姓の山下 正さんという人が名刺を渡して「私は山下 正と言いますが、山下正と山下清は、兵隊の位で言えばどっちが上ですか?」と尋ねた。しばらく額に手をあて、画伯は答えた。「そうだナ、ボクのほうが上だナ。清のほうが字の数が多いからナ」。一同、爆笑したが、さすが「裸の大将」の当意即妙に感心したものだった。
 井崎先生は少し酒が入ると、よくこの話をしたので、私の頭にこびりついている。

 兄貴みたいな忘れられない存在

 井崎先生は義母と私を日本の漫画界のそうそうたる面々が箱根の旅館に一泊で集う社団法人日本漫画家協会忘年会や同協会創立何十周年記念だったかの帝国ホテルで開かれたパーティーに呼んでくださり、エラい先生方の信じられないハチャメチャぶりを目撃し良い思い出となっている。
 私の70年の半生で“取っ組みあいの喧嘩”をしたのは、たったの1回だけだった。お互いに酔っ払い、猫のジャレッコみたいなものだったが、相手は悪酔いで挑戦的になる井崎さんだった。そんな子供じみた体験があればこそ、私にとって、この方は先生というよりは、親しい先輩、“井崎さん”で、兄貴みたいな忘れられない存在だった。

 2002年(平成14年)6月30日午前5時32分、心筋梗塞のため東京・港区の病院で死去。享年87歳。

 
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