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芸能界のご意見番、
歌手・淡谷のり子さん

淡谷のり子さんを囲む会



1988年秋、本会主催「淡谷のり子さんを囲む会」。二子玉川の富士観会館で。二人目が淡谷さん、手前・鈴木善子、右・岩田
 
 「わたし、50年ほど電車に乗ってないの〜」

 日本のシャンソン界の先駆者で「ブルースの女王」にして“芸能界の大御所”の淡谷のり子さんの取材で初めて池上線洗足池駅近くの自宅にうかがった。私は少々ビビっていた。いつの間にかマスコミに洗脳され、相当怖いイメージを植えつけられていたようである。
 
 「淡谷先生でも電車に乗ることがありますか?」と開口一番、ぶしつけな質問をしてみた。「わたし、昭和28年からかれこれ50年ほど自宅近くの電車に乗っていないの〜」と天井人のような答え。「だって、大声で『淡谷のり子が電車に乗ってる〜!』とか、街を歩いていると『淡谷のり子が歩いてる〜!』とか、言うんですもの〜。わたしだって脚があるんだから歩くわよね〜」。
 こんな調子でスバリ率直に話すので、インタビューはじつに楽しく、気楽に取材ができることが分かってホッとした。

 さまざまな嫌がらせも

 しばらく淡谷さんと話すうちに、この人は心根が真っ正直で、話の裏表が無く、何事もホンネで話す人とみた。心にもないお世辞は口が裂けても言えない人。テレビやラジオでもズバリ本音で発言するため、それが誤解され反感を買うのだと思った。
 確かにそのホンネが素でさまざまな苦い体験をされた。歌の基礎がない歌手を「歌手じゃなくくカス」と評して」物議をかもしたり、ある若い歌手を「あの娘は歌手ではなく“歌屋”だ」とラジオで発言した翌日、自宅車庫にシートをかぶせて入れておいた車に放火され、丸焼けになったこともあった。小包が届いたので開けたら石ころ。それに殴り書きのメモがあり「このカミソリで首を切って死ね!」。さまざまな“いやがらせ”が次々あったという。
 
 自らが何度も席を立ち、茶菓子の接待を

 取材中、あの“芸能界のご意見番”のご本人が、みずから何度も席を立ち、台所へ行っては紅茶にはクッキー、コーヒーにはケーキ、緑茶にせんべいと、お持ちくださる、そのおもてなしに驚くやら感動するやら。同時に戸惑ったのは世評の“淡谷像”と“実像”との余りに大きな隔たりがあったことだった。以来、淡谷のり子さんと私たちとのお付き合いが始まった。

 あるとき、例の口調で私に電話が掛かってきた。「横浜のNHKがあなたの紹介だと言って“横浜の歌特集”をやるんだって・・・。岩田さんの名を使ったカタリかと思って・・・。そう、本当なのね。じゃあ、出るわ」。私の元に取材に来たNHK横浜支局のプロジューサーが「淡谷さんだけはどうも苦手でね〜。ハマの特集に淡谷さんのブルースが登場しないとサマにならない。岩田さんの名前を使わせてもらっていいですか?」。この言葉どおり、さっそく電話で出演交渉したようだ。

 色紙に達筆な筆字で短歌を記すサイン

 雪谷のケーキ屋で連載「ケーキdeデート」のゲストとして登場してもらったときと、本会主催の「淡谷のり子さんを囲む会」を二子玉川で開いたときのことだ。
 サインをお願いする人がいると、マネジャー兼運転手の男性に「車から色紙を持ってきて〜」と言いつけた。筆ペンでスラスラとめいめい違う短歌を書いて上げるのである。それが書家のように達筆。しかも自作の句だ。椅子に座って背筋を伸ばし、左手で色紙を持ち、右手で滑るように書くその姿が今でも眼に浮かぶ。色紙も自分持ちで、これほど真心のこもったサインをあげる著名人を私は見たことがない。
 
 苦労人の有難い言葉

 淡谷さんの子どもの頃の夢は、小説家になることだったそうだ。青森県一の大きな老舗呉服屋だった実家の長女に生まれた彼女は、学校から帰るといつも文を書いたり詩を書く文学少女だったという。“青森大火”で実家が丸焼けになり、荒んだ父親の浮気で両親が離婚、青森県立第一高等女学校を中退し母親に連れられ妹と女ばかり3人で右も左も分からない東京へ。
 上京後、音楽好きの母親が近所の裁縫仕立ての内職で生計を立てるなか、音楽学校なら学費を出してあげると東洋音楽学校(現・東京音楽大学)を受け、合格。
 以来、音楽の道を歩むことになったとは、淡谷さんから聞いた身の上話だった。実家が火災に遭わなかったら・・・、また、あのとき自分の希望どおりの学校を受験できたら、「きっと私は小説家になっていたでしょう」と淡谷さんは私に語った。
 淡谷さんがそんな文学少女だったからなのか、「あなたの草の根の活動はホンモノよ」とおっしゃって『とうよこ沿線』に理解があり、いろいろと雑誌発行の苦労を心配してくださり、こんな有難い言葉をかけてくださった。
 「切羽詰って困ったことがあったら私に言ってちょうだい! 私がコンサートをやり、資金を集めますから・・・」。ここに人生の辛酸をなめ苦難を乗り越えてきた淡谷のり子ならではの人間性が凝縮されている、と思い、この一言を私は今も大事にしている。

 そんな人情味あふれる淡谷さんだったが、長年の音楽仲間の歌手・藤山一郎さん(祐天寺在住)と作曲家・服部良一さん(西小山在住)が死去した1993年に脳梗塞で倒れた。療養生活中の1996年、歌仲間たちが「淡谷のり子先生米寿コンサート」をひらき、このときフィナーレに全員合唱するなかで口ずさんだ「聞かせてよ愛の言葉を」が淡谷さんが人前で歌った最後だった。1999年9月22日逝去。享年92歳。
 
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本誌編集発行人 岩田忠利

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no.19
実像は優しい、楽しい女性