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第7号「沿線っ子」から |
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子どもたちの誌面「沿線っ子」の連載
「将来の明るい社会を子どもたちに託す」が私の持論の一つで沿線の子どもたちが発表する場として連載ページ「沿線っ子」を第2号から毎号7〜8ページの誌面を割いた。
子どもたちの日ごろの活動成果や主張の場とした。会員には小学校3〜4年生から中学生までが20人ほどがいて、彼らは取材や文字原稿やイラスト描きの編集面、駅売店の配本で活躍した。編集面の指導や企画は現役大学生のお兄さんやお姉さんたちに一任して毎号の誌面をまとめた。
子どもたちには“生きた社会勉強”
子どもたちにとっては学校では経験できないことばかり、みな新鮮に映る。初めて参加した大人会員の目にもそう映るのだから、子どもにはなおさら目新しい。自分で書いた文が活字になって多くの人の目に触れること、取材でいろんな未知の世界や人と接すること、編集室で年代を超えた編集スタッフと話をすることなど、“生きた社会勉強”となる。
今思うに、あの頃、参加していた子どもたちの目は、確かにキラキラ輝いていた・・・。
或る少年、小学校6年生の行動
たくさんの子どもたちが編集室に集まってくるきっかけとなったのは一人の小学生、世田谷区立奥沢小学校6年生、千葉敏行くんの行動だった。彼は父親が慶應大学OBで母親に連れられ三田の慶應大学「三田祭」に行った。
母親が慶大の講堂で公開録画を観ている間、千葉君はメイン会場のテントの中に高く積まれた無料配布の「とうよこ沿線」第2号を貰って夢中で読んでいた。ふと目に留まったのが「沿線住民が作る雑誌「とうよこ沿線」、あなたも参加しませんか?」の募集記事。夕食のとき両親の前で彼は嘆願した。「ボクは、この雑誌『とうよこ沿線』」の会員になって活動したんです。ボクにもやらせてください、お父さん!」。
日ごろおとなしい優しい子が余りに熱心に頼むので、父親は困った。日吉の編集室の責任者、岩田なる人物がどんな人間なのか、その情報がない。そこで千葉くんのお父さんは、日吉に住む慶應時代の学友に電話し私のことを訊いたそうだ。
「岩田さんのことは新聞を読んで知っている。安心しなさい。それは、素晴らしいことだよ。ボクに君のような息子がいたらお金を払ってでも通わせるな〜」。これが日吉の友人からの返事だった。これで千葉君は父親からの承諾を得た。
土砂降りの中、私が取材先から帰ると、留守番の主婦会員が「編集長、小さな男の子が会員になりたいと言って来ました。また明日、午後に来るそうです」。その言葉どおり、千葉敏行くんがやってきた。ハキハキとした明るい性格の子で「ボクを会員にさせてください。一生懸命やって将来は岩田編集長の次の2代目編集長になりますから・・・」。意欲満々、その気持ちを素直に表し、2代目編集長宣言まで堂々としたのだった。
父母の間で広まった千葉くんのこと
千葉くんがデビューしたのは、第6号“榎”の「えんせんっ子」に見出し「ぼくは『とうよこ沿線』記者志望デス」であった。
彼はさっそく掲載号を担任の先生にあげた。それを校長先生も読んだ。奥沢小学校の父母会総会の席上、校長先生が「わが奥沢小学校には6年生にこういう児童がいます」と千葉君の例を取り上げ、出席のお母さん方の前で紹介した。
その話はその晩、家庭で話題になったのだろう。その後、奥沢小学校の子どもたちが千葉くんと一緒に編集室にやってきてゾロゾロ入会した。一気に14名にもなったのである。
やがて連載「沿線っ子」誌面を読んだ子どもたちが目黒区、神奈川区、港北区内にも増え、編集会議ともなるとさながら学校のような賑やさだった。
この「えんせんっ子」たち、いまはみな40歳前後になっているはず。どんなお父さん、お母さんになっているか、会ってみたいものだ。
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