本誌編集発行人 岩田忠利

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no.17
数々のヒット歌謡を生んだ作詞家(第6号)
タイトル/画像 本文
元住吉マリクレール通りで作詞家・石本美由起先生

美空ひばりらが石本邸で


昭和42年5月、石本先生宅の新築祝いに駆けつけた作曲家の古賀政男や服部良一、ひばりの母・加藤喜美子
 
新連載「ちょっといっぱい途中下車」のゲストに作詞の大御所

 「読者の皆さんが気楽に立ち寄って、疲れた身体を飲んで食べて癒せる店をルポ風に紹介しよう!」というコンセプトのもと、タイトル「ちょっといっぱい途中下車」なる新連載を始めることにした。
 その内容はお酒と歌に関係のある著名人で沿線在住者のゲスト登場者を迎えてルポ風記事で紹介しようと決めた。では、どなたをゲストに? 
 まず第1候補は作詞家・石本美由起先生(日本作詞家協会会長)。先生には創刊号以来1年足らずで2度の投稿と連載「お宅訪問」でご協力いただいている。ご自宅にうかがって相談すると、即座に「いいですよ」のお返事をいただいた。

 「悲しい酒」「憧れのハワイ航路」「矢切の渡し」など約4000

 石本先生の歌は、私たち日本人の心に深く浸透している国民的ヒット曲が多い。美空ひばりの「悲しい酒」・「港町十三番地」「ひばりのマドロスさん」「哀愁波止場」、島倉千代子の「東京の人よさようなら」「逢いたいなァあの人に」、こまどり姉妹の「ソーラン渡り鳥」「渡り鳥いつ帰る」「浅草姉妹」。レコード大賞歌の「矢切の渡し」「長良川艶歌」、戦後敗戦の痛手で沈んでいた心に勇気と希望の灯をともしてくれた「憧れのハワイ航路」「長崎のザボン売り」「柿の木坂の家」など挙げたら枚挙に暇がない。
 取材先は事前に当スタッフが交渉し用意した元住吉西口の飲食店。それを二晩で石本先生と私が15軒を次々飲み歩く、いわゆる“梯子酒”をしたのだった。訪ねるどの店でも先生作詞の歌を流して歓迎する。飲むほどに居合わせたお客から「センセエ〜、悲しい酒をお願いしま〜す!」なんて威勢のいいリクエストも飛び出す。これに快く応えマイクを握って自作の「悲しい酒」を披露する石本先生。

 どんなときでも感性を研ぎ澄まし創作意欲を持って

 歌が終わると、今度は私が質問する。「先生が作詞するとき、その歌詞の“舞台”って現実にあるのでしょうか? それとも架空のものですか?」。先生いわく「『悲しい酒』は、横浜駅西口から松ヶ丘のわが家への向かう途中によく立ち寄る“居酒屋”があり、その店で働く東北地方から出てきた女性から身の上話を聞いて歌をつくったのですよ」。へべれけに酔っ払って銀座から横浜へ向かうタクシーの中から夜景を見て、ふっと頭に浮かんだことがあると、タクシーを止めさせてメモをとることもあるそうだ。
 先生はこうして常に創作意欲と研ぎ澄ました感性を持ち合わせ、次々と名曲を生んできたことが分かったのだ。

 書斎にこもっていては、ものは書けない

 元住吉西口商店街の居酒屋、バー、焼き鳥屋、炉端焼きなど行く店の先々で石本先生は次々とお酌に付き合ったり、歌わされたり、変な質問攻めにあったり・・・。先生にはそれが楽しい酒どころか、文字通り「悲しい酒」でないかと私は気をもんだものだった。すると、先生は私に忘れられない言葉を仰った。「書斎にこもっていては、ものは書けません。ものを作る源はいろんな人に会って、何か吸収することです。無駄なことでも、いつかは生きてきます」。
 
 若輩の私のほうからは欠礼ばかりなのに、毎年年賀と暑中のご挨拶を欠かさず、人間関係を大事にされていた先生。糖尿病とうかがっていたが、テレビで先生が平成21年5月27日に85歳で亡くなったことを知り、二の句がつけず目の前が真っ暗になった。ここに先生のご冥福を謹んでお悔やみ申し上げます。合掌 

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