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在りし日の楠本憲吉先生



楠本先生の名言「複雑なことは、単純に。単純なことは、複雑に」

先生が書留で送ってくださった色紙
 
 マスコミに引っ張りだこの文化人、楠本憲吉先生

 楠本先生は関西で有名な老舗、大阪北浜の料亭「灘万」の御曹司(長男)。慶應大学時代は俳句誌「慶大俳句」を創刊し、“学生俳人”として活躍された。慶應の同窓生、作家・遠藤周作のエッセイに「学生時代ボクの弁当をクスケンの奴に何度も食べられた」などとたびたび登場したりしていて、一読者としてこんなヤンチャなクスケンさんに興味をもっていた。先生は俳人のかたわらエッセイ、評論で活躍、講演の名手でもある、マスコミにも引っ張りだこの文化人だった。

 本誌俳壇選者のお願いに参上すると・・・

それほど有名な楠本先生は当時、読売新聞全国版第1面の読者投稿連載「俳句」の選者もされていた。
 先生は自由が丘の隣町、緑が丘に住んでいた。『とうよこ沿線』でも第5号から1ページをさいて俳句投稿連載「とうよこ俳壇」を設けた。そこで、怖いもの知らずというべきか、恥知らずというべきか、売れっ子文化人の楠本先生に思い切ってお願いしてみた。断られて、もともと。というよりは「明日ツブれるかもしれない吹けば跳ぶような地域雑誌」、どうせ断られるなら・・・を覚悟して、率直に、正直に先生に話してみた。
 「先生、うちの「とうよこ俳壇」の選者になっていただけないでしょうか? まだ創刊して日が浅く、先生への謝礼をお支払いしたくても、その余裕がありません」。先生から思ってもいなかった返事だった。「そんなこと、気にしなくていいよ。誌面からみんなのやる気が伝わってくる雑誌だ。やろう、やろう! 喜んでやるよ!」。第6号“榎”から楠本先生が俳句投稿ページの選者を、むしろ買って出るような形で稿料タダで引き受けてくださったのである。

 “クスケン人気”の凄さ

 6号発行後、ザホテルヨコハマの鈴木総支配人が訪ねてきた。同ホテルに“レディースクラブ”という女性対象の会員制度を始めたのを記念し中年女性層に人気のある楠本先生の講演会を開きたい。ついては私に先生を紹介して欲しいとの用件だった。
 先生の講演依頼は全国から殺到していてお願いしてから4カ月後、同ホテルで開かれた。当日の会場は女性客で超満員・・・。講演終了後、驚いたのはサインを求める長蛇の列、その長さだった。目見当で30bもあったのだろうか。
 後でその行列のことを先生に話したら、こんなエピソードをご本人が。静岡での講演会のこと、女性からサインを頼まれた。「毛筆でお願いします」と差し出されたのは、色紙に出なく、新調のドレスに。しかも時価百ウン万円を着たまま、両胸に。「あんときゃ〜、手が震えたねぇ」と先生。“クスケン人気”の凄さを示す一例である。

 取材拒否する有名人がいたらワシに連絡を・・・

 原稿の件で楠本先生と電話中、先生がこんなことを話した。「岩田さん、沿線在住の有名人で取材拒否する人間はいないでしょうねぇ? もし居たら私に電話ちょうだい。私がその人間に電話して住民の一人として協力させますから・・・」。こんな強力な『とうよこ沿線』の味方は、初めてだった。
 数日後、「沿線住民勢調査」という人物紹介連載に何度も登場依頼にうかがっても本人が返事すらしない有名な男性歌謡歌手が田園調布にいた。本人の名誉のため、I・Hとするが、数日後、田園調布のI・H宅に行ってみたら、母親らしきオバさんが「原稿は書いてある」という。楠本先生がさっそくプッシュしてくれたようである。

 東京サミットの首脳が集まったレストラン灘万の社長兼務

 楠本先生はホテルニューオータニの最上階にあるレストラン「灘万」の社長でもあった。ここが全国的に知られたのは初めて世界の先進7カ国の首脳が集まる“東京サミット”の時だった。本誌創刊の前年、1979年のこと。ここ「灘万東京」に日本の大平正芳首相、カーター米大統領ら首脳が集まって懇親パーティーを開いたのである。
 そんな超高級レストランにオーナーの楠本先生が私ども4人のスタッフを食事に招待してくださった。
 そのとき、いつもスリムな体形の先生の健康法が話題になった。「岩田さん、健康でいたかったら朝起きたらコップに何杯かの水を飲みなさいよ。できたらその中に酢を入れて飲むことだ。その後、ジョギングをして汗をかくことだね」。なるほど、女性にモテる秘訣はこうした努力にあったのだ。
 そして先生の話は俳人らしく『とうよこ沿線』の号名に及んだ。「木偏に冬、春、夏までが『とうよこ沿線』に載っていたが、木偏に“秋”、「楸」がありませんね。この「ひさぎ」もぜひ入れてください」。さすが先生は俳人、樹木にも詳しかったのには改めて敬服したのだった。

 書留郵便の句が先生の遺品に

 昭和62年11月、本会が第1回タウン誌フェスティバルで“第1回タウン誌大賞”を受賞した正月、楠本先生から書留郵便が届いた。開けてみたら、なんと俳句の大御所の先生が私たちのために創作された句であった。
 <火が爆ぜる タウン誌 賞の春 楠本憲吉>

 「火が爆(は)ぜる」とは、私たちの「情熱の火が爆発して」という意味なのだろうか。素人には絶対に浮かばない、素晴らしい表現だ。先生にさっそくお礼の電話をいれると、「岩田さん、ぱーっと盛大に祝賀パーティーをやりましょう!」。先生はその受賞を喜び、そのパーティーを楽しみにされていた。まさか、このとき先生と交わしたこの会話が最後になるとは・・・。その年、12月17日ご逝去。65歳だった。
 当面の雑誌発行に追われ、すぐに祝賀パーティーを開けず、楠本先生のご要望に応えることができなかった。10周年記念、タウン誌大賞、サントリー地域文化賞と三つのお祝いを兼ねたトリプル祝賀会をザホテルヨコハマで開いたのは、先生の死後2年後だった。あ〜、楠本先生には真っ先に壇上にあがって祝辞を述べていただきたかった。楠本先生への謝罪と感謝の念を込め、あの色紙は今でも編集室に飾ってある。
 
 
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本誌編集発行人 岩田忠利

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no.16
心強い味方、クスケンさん