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学校を訪ねると、いつもにこやかに迎えてくださり、校内の隅々までご案内くださった |
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新企画にはまず第1回の登場者で協力くださった
三雲孝江さん |
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全国タウン誌初の「テレホンサービス」に沿線在住有名人20人のトップを切って登場してくださった |
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編集室によく立ち寄った頃の三雲孝江さん |
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日本初の聖書印刷所が捜真女学校発祥の地
東横線反町駅前の第二京浜国道のバイパス「横浜バイパス」を渡り、古い街並みの松本通り商店街を横切ると、長い急坂の栗田谷の坂が続く。登りきった峠の信号を左折し、少し進んだ右手に白亜の4階建てに赤い屋根、ひときわ目立つ捜真女学校のキャンパスがそびえ建つ。幼稚園、小学校、中学校、高校までの一貫教育のキリスト教の私塾、いまここに1500人の子弟が学んでいる。
この捜真女学校の創立の地は、ここ神奈川区中丸ではなく、山手の外人居住地、今の“港の見える丘公園”のそばで、日本で最初の日本語訳の新約聖書が印刷された場所だった。この印刷に携わったブラウン博士、そのブラウン夫人が日本の子供たちの教育に熱心で明治時代初期、私塾を開いた。それが捜真女学校だった。
売れ行き好調、「わが母校 捜真女学校」掲載の4号
そんな伝統ある学園を「わが母校シリーズ」で慶應大学、東京都立大学につづく3校目で取り上げることになったのは、第4号。主婦会員のスタッフ数名が何度も同女学校に通い、日野綾子校長らと編集の打ち合わせを重ねた。学園の歴史、同窓生の取材や執筆依頼、在校生の課外活動や学園の現状などを写真やイラスト入りの見やすく楽しめる紙面8ページにまとめ、昭和56年3月1日発行されたのだった。
このニュースは卒業生の間にすぐに広まり、捜真女学校が載った第4号“椿”は売れた。とくに捜真女学校周辺の反町、白楽、東白楽などの書店では飛ぶように売れた。なかでも捜真女学校関西同窓会からは500冊の大量注文がきた。日野綾子校長はこの事実を喜ばれ、私たち編集スタッフを山下町のグランドホテルに食事招待し労をねぎらってくださった。
お世話になった日野綾子校長
それ以来、日野校長は本誌『とうよこ沿線』をお気に入りになったようで、本誌の存続をいつも気にかけてくださった。日野校長のその言葉に甘え、私は同校の近くを通りかかったときは立ち寄って広告提供や同校生徒の本会主催「イラストマンガ大会」への参加呼びかけをお願いしたものだった。
こんな言葉も頂戴した。「本作りにはいろいろ経費が掛かるでしょう。学校の印刷室で編集室のチラシなどは印刷しなさい」。おかげで毎戸へ配るチラシの大量印刷も。本誌発行にたいへん協力的な貴重な先生だった。
バイリンガルで帰国子女の草分け、三雲孝江さん
「わが母校 捜真女学校」の誌面に同窓生で各界で活躍中の卒業生を学校側で選び、原稿依頼をし、誌面に登場した。往年の名歌手・渡辺はま子、渡辺プロダクション副社長・渡辺美佐、作詞家・阿木曜子、パーカショニスト・吉川すみれ、テレビアナウンサー・三雲孝江さんもその中にいた。
なかでも三雲さんはTBSに入社して4年目、二十代の若さで番組「3時で会いましょう」に毎日出演、茶の間のアイドルだった。彼女は父親の三雲四郎氏(当時本社論説委員長)が産経新聞社のロンドンやパリ支局長時代、両国で少女の頃を過ごし、英語とフランス語を身に付けた“バイリンガル女性”で“帰国子女”の草分け的存在だった。
そんな彼女とは、最寄り駅が当編集室と比較的近い妙蓮寺駅だったことも親しくなった原因だったが、何かと忙しかったことだろうに、新企画を立てるたび誌面登場やら原稿執筆やらとお願いすると快く引き受けてくださる人の好い面が私を近づけさせた。打ち合わせや自宅で書いた原稿を持って、赤坂のテレビ局に通勤する途中、日吉駅で下車し編集室に立ち寄ってお茶を飲みながらダベって仕事場に向かったのだった。
「あの男の人、あんた〜知ってる〜?」
連載「ケーキdeデート」第1回目ゲストに三雲孝江さんを迎え、山下町のザホテルヨコハマで取材するときだった。彼女と桜木町駅の改札口で待ち合わせし、一緒にタクシーで山下町まで行く約束をした。5分ほど待つと、彼女が電車から降り、私の姿を見るなり、手を挙げ、近づいた。と、雑踏の中の女学生のグループがわめきだした。「わぁ〜、タカエちゃんだぁ〜!」と言いながら二人の後をついてきた。いちアナウンサーだと思っていた彼女が女学生にまで知れている事実は私には新発見だった。さらに女学生らの次の一言が耳に入った。「あの男の人、あんた〜知ってる〜?」「う〜ん、知らないねぇ〜」。私は内心、呟いた。「知ってるはずないじゃねぇ〜か。そこいらにいっぱいいる、一介のオジサンだよ」。浜っ子の孝江ちゃんは、すでに“横浜の有名人”であったのだ。
ともかく、あれやこれやと、当編集室では孝江ちゃんには大変お世話になったものだ。「イラスト・マンガ大会」審査員、「テレホンサービス」初回登場者、ザホテルヨコハマに250人の出席者を集めての「創刊10周年記念パーティー」の総合司会者、また本誌記年号のたびの原稿執筆と、無理を承知でお願いしたが、彼女は一度も嫌な顔もせず、ご協力くださった。
いまは孝江ちゃん本人と会う機会はないが、テレビ画面であの笑顔とよく対面し、いつまでも元気にご活躍されることを心から祈っている。
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