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本誌中核スタッフとして多大な貢献をした漫画家・畑田国男さん


昭和56年秋、元住吉西口商店街での本会主催「移動編集室」で挨拶する畑田さん
写真とイラストの合成の表紙絵



昭和60年8月発行の第29号「横浜特集」から畑田作の写真とイラストの合成表紙絵が始まり、現代的で斬新な絵と注目された

慶應の“漫研”OBの沿線っ子

 漫画家・畑田国男さんとは、彼が本誌創刊号を田園調布駅西口駅前の画廊で初めて手にして以来、本誌に興味を持ってからのことだから長いお付き合いだった。
 たまたま「畑田国男編」を書こうとしている矢先だった。『SFマガジン』という雑誌に挿絵画家の先生方の列伝を執筆している人から「畑田国男先生のことを調べていましたら『とうよこ沿線』ホームページにたどり着いた」とのことで「畑田先生登場のバックナンバーを送って欲しい!」とのメールをいただいた。

 自由が丘の隣町、緑が丘に生まれ育ち、慶應大学“漫研(漫画研究会)”で青春を謳歌した人だけに、東横沿線をこよなく愛し、各駅前の事情通であった。彼と私とはそんな共通の話題で、よく話が合った。そのうえ彼はソフトで、感情的にならない温和な人柄だったので、何でも安心して相談できる良き友だった。月一度は開く編集室のパーティーやイベントには必ず顔を出し、みんなとワイワイやっていた。書店に並ぶ彼の新刊著者紹介にはどれにも「東横沿線を語る会会員」と所属団体が書かれていた。

 漫画・文・デザインなど数多くの作品を誌面に残す

 
 とくに数々の作品を残し、本会運営や本誌発行のために大いに尽くしてくださった。「イラストマンガ大会」の応募者335人の作品全点を観る審査委員長。本誌シンボルマークやテレホンカードのデザイン、ナイトウオークの4カ所のチェックポイントのスタンプのデザイン。
 沿線在住の各界で活躍する有名女性とケーキとお茶で対談する連載「ケーキdeデート」を第1回三雲孝江さん登場の第13号から第44号の淡谷のり子さんまでを取材し文とイラストで飾り、本誌の“目玉連載”の一つだった。
 本誌表紙を第29号から第61号までのロングランで写真とイラストの合成という斬新な作品で世に送り出してくれたり、「沿線住民酷勢調査」人物イラストは第6号から第30号までという長丁場を延べ200点以上もの挿絵を描いて“名物連載”とされた。
 これら作品を生み出す前に、私は何度畑田さんの書斎に打ち合わせにうかがったことか・・・。そのたびに紅茶を入れてくださり、いろんな世間話をしたものだった。

 青天の霹靂、その訃報。悔やまれる若さ、51歳

 あるとき、畑田さんは私に禁煙の話を持ちかけた。「私は禁煙をしようと思うのですが、編集長も私と一緒に禁煙をしませんか?」。
 それから一週間ほど経った3月13日夜、取材先から帰って留守電を聞き、畑田国男さんの訃報に接した。まさか・・・51歳という若さで? イタズラ電話かと疑った。自宅に確認の電話を入れ、真実が確証された。 
 彼の仕事場である書斎は、自分が生まれ育った両親のお宅の2階にあり、奥様と二人のお嬢様と住む自宅は数歩で行ける別棟にあった。当日、一階に住む母親は近くの美容院へ出かけたが、ガスを消し忘れたような気がして戻ったときは「1階で物音がしたんで降りてきてみた。お母さん、気をつけて行ってらっしゃい!」と元気に声をかけた。帰宅した母上が「ただいま!」と言っても息子の返事がない。それが、机にうつぶせたままの畑田国男さんの最期だった。
 死因は急性心不全。平成8年(1996年)3月11日午前11時30分のことである。あれほど気の優しい、好い男が51歳の若さで・・・と今でも悔やまれてならない。合掌
  
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no.12
表紙絵、挿絵など数多くの作品を遺す
本誌編集発行人 岩田忠利

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