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昭和25年の赤門坂。道の両側から樹木が覆いかぶさり昼なお暗い坂道
写真:川田需さん撮影
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日吉っ子の
第33代横綱武蔵山
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昭和11年26歳で横綱に昇進したとき。右は笠置山、左に大丘。本名・横山武。昭和44年没。享年59歳。未だに神奈川県唯一の横綱 |
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南日吉と日吉台を結ぶ交通の要所で、日吉一の難所
一昨年夏の夜、バイクが妙にタイヤがガタガタするので停めてみたら、パンク・・・。それが事もあろうに、日吉で一番の難所、急坂の赤門坂の手前、100bほどだ。そこを汗ダクダク、やっとの思いで登って駅近くの駐輪場まで運んだことがあった。
ここ赤門坂は、南日吉から日吉台にある日吉駅や商店街、小学校への交通の要所。南日吉の人々はこの難所を通らなくては通勤も買い物も、通学もできないのだ。
地元の古老の話では、昭和20年代頃までの“雪の赤門坂”は特に難儀したそうだ。坂の両側は竹が生い茂り、それが雪の重みで道の両側から覆いかぶさり、時には割れ、道を遮断してよく通行できなくなった。また、寒い朝晩は雪道が凍結し氷壁のようになり、ひとたび足を取られると、10b以上も滑り落ちてしまったそうだ。
赤門坂を子牛に代って荷車を引っ張りあげた少年
その胸を突くような急坂を上りながら、この坂の下で生まれ育った横綱・武蔵山(第33代横綱。本名横山武)のことを思い出していた。本家の従兄弟、横山治夫さんは私に武蔵山の子どもの頃のこんなエピソードを語った。
農家と米屋を営む家の長男、横山武は、積荷が重くて赤門坂を登れない子牛を「ならばオレが・・・」と子牛の背中から荷車をはずし、自分でその荷車を引いて赤門坂を登ってしまった。しかも、それが少年の頃だというから,武蔵山は幼い頃から天賦の怪力の持ち主だった。
今は消えた、サワガニがいた道端の流れ
左上の写真、昭和25年当時の赤門坂は、道幅も狭く、砂の道で日吉台小学校に近づくにつれ急坂になる。写真に写る、下から上ってくる女の子が腰をくの字に曲げているのを見ても、いかに急勾配であるかが分かる。
昭和40年代から50年代の赤門坂は、道路改修で道幅が広くなり、ドロの道がアスファルト舗装され、すっかり歩きやすくなった。それでも南側が急勾配の山で斜面に樹木が生い茂り、その山裾からチョロチョロ清水が湧き出て、道沿いに小さな流れをつくっていた。車で通ると、いつも数人の子どもたちがサワガニ捕りに興じていたものだ。
今は、その山裾が切り崩され、その斜面を利用した雛壇式の瀟洒なマンションが建っている。清水の流れは消え、サワガニ捕りの話も昔話となってしまった。
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