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多摩川岸に近い上丸子山王日枝神社社務所で開いた座談会 |
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大正14年から昭和42年まで続いた
京浜地区最大の花火大会
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場所は丸子橋の下、川崎側の河川敷。一時戦時中に中断したが、戦後復活し東横沿線の名物行事だった。交通渋滞が激しく、昭和42年に廃止 |
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沿線7区の各区代表による座談会
前ページの小林英男さんといえば、第3号“柊”で最も反響があった第3回誌上座談会「心に残る沿線のくらし」に出席された。この座談会には渋谷区・目黒区・世田谷区・大田区・中原区・港北区・神奈川区を代表する皆様で、そこに生まれ育ち、その地の隅から隅まで知っている“地域の生き字引”の人を探し、集まってもらった。
会場は多摩川の川岸に近い、平安時代創建の由緒ある新丸子の鎮守の森、上丸子山王日枝神社の宮司・山本五郎さんの自宅である。明治、大正、昭和の時代に東横沿線に住む人たちがどのように暮らし、どのように生きてきたか・・・大いに語っていただいた。
この座談会の司会役と録音テーブを聞きながら原稿を書いたのは私だったが、その原稿を書きながら何度も「ヘェ〜」と驚き、「ホント〜」と呟いた。なかでも小林英男さんの話は、年号・地名・人名・数量などが入っているので、信憑性があり、説得力があった。この記事につけた“見出し”は次のようなもの。
信じられない本当の話
「貧しかったあの時代」・・・食事は肉が年に数回、栄養価の低いものばかり。通学は着物で草履(自由が丘の安藤さん)
「なつかしい水車」・・・昭和の初期まで普及。電灯の普及と水車の廃止はほぼ同時代で電動に替わる。(世田谷・等々力の豊田さん)
「ズロースはかない女生徒たち」・・・昭和2〜3年世田谷・玉川小学校では全員ズロースをはいていなかった。(世田谷・等々力の豊田さん)
「激動の昭和、あの頃」・・・昭和20年〜25年までの耐乏生活がどの時代よりも苦難のとき。(反町の斉藤さん)
「新聞が違えばまとまらない縁談」・・・新聞は支持政党によって異なり、同じ購読新聞でないと縁談はまとまらない。(小杉御殿町の小林さん)
「お客のもてなしは蓄音機で」・・・大正の初期、縁側に蓄音器を出し、流れる歌をお客に聴かせのがもてなし。(小杉御殿町の小林さん)
「東横や玉電の線路ができると電気の配給}・・・沿線住民は電気が配給され電灯がついたので喜んだ(世田谷・等々力の豊田さん)
「乗れるまで指導する自転車屋サン」・・・明治末期、自転車の普及し始めの頃、調布村の自転車屋が来て指導した(小杉御殿町の小林さん)
「年間麦1斗で渡れた丸子の渡し」・・・東京と神奈川を結ぶ渡し場は小麦1斗を料金分として渡せば年間無料。(小杉御殿町の小林さん)
「子供の頃から花柳界へ」・・・芸人の母は子どもの面倒見るため人力車で花柳界へ連れて行った(田園調布の竹若さん)
「丸子園と花火大会」・・・丸子園は東横線開通前、京橋のキャンディー屋「三河屋」の社長・大竹幾次郎が多摩川べりに約3000坪の敷地に建てた料亭。その大竹社長が三河の花火師を呼んで「多摩川花火大会」を行い、人出30万人で京浜一、日本一とも言われた(小杉御殿町の小林さん)
「遺跡の多い東横沿線」・・・遺跡が日本一多いのは南関東。その中で一番多いのが港北区から川崎市幸区にかけて(反町の斉藤さん)
「大震災前日、75キロも捕れたウナギ」・・・大正12年9月1日震災の前日、沼地の田圃で20貫もナマズでなくウナギが捕れた。(日吉の川田さん)
「キツネに化かされたお話」・・・曾祖父は肥桶担いで日吉から羽田をよく往復したが、帰りの夜道でよくキツネに化かされた(日吉の川田さん)
「昔の人の健脚ぶり」・・・火事で怪我した人を戸板の上に乗せて4人で担ぎ、日吉〜川崎〜六郷橋〜大森〜日本橋〜千住の名倉接骨院まで運んだ(日吉の川田さん)
「毎月あったお正月」・・・本正月は2月。雨が降ると村の区長が「お湿り正月だ」と“ふれ”を出すと急にお正月になった。(日吉の川田さん)
この座談会の原稿は紙数10ページに組み、たいへん好評だった。とくに20代、30代の読者から「過去の東横沿線を知るうえで大変参考になった」との便りが多かった。
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