|
74年間日記を書き続ける
敬老の日の一週間ほど前、読売新聞横浜支局の知り合いの記者が訪ねてきた。「スカッとしたお年寄りはいませんかね〜?」。老人の記事はとかく暗いイメージが強いので、明るい話題の持ち主を探しているという。すぐ小林英男さんの顔が浮かんだ。
小林さんは、創刊号を読んで78歳のとき会員となった。明治35年(1902年)に川崎市中原区小杉御殿町に生まれ、地元の中原尋常小学校を出てから、立教中学校(現在池袋にある立教大学と立教中学は築地の聖路加病院が建つ以前、その場所にあった)に入学した。1年のときの大正4年(1914年)、寄宿舎の舎監が「君たちは1年生になった。これをきっかけに日記をつきなさい」と勧めた。銀座裏の古本屋で1ヵ月遅れの日記帳を定価50銭のものを20銭で求め、その日から書いた。以来、明治・大正・昭和と激動の三時代を一日も欠かさず74年間書き続けたのである。
その長さは世界第2位、日本人第1位で日本版ギネスに
読売の記者は「これで決まり〜!」と膝をたたいて喜んだ。数日後、読売新聞神奈川県版に日記帳がずらっと並んだ本棚の前に立つ小林英男さんの写真と記事が大々的に。その数日後、その記事を書いた読売の記者の紹介という講談社の社員から「小林さんの日記記録をギネスブックに申請してみたいので、小林さんのことを教えてください」という問い合わせの電話だった。それから一年ほど経ったある日、小林さんからの電話。「日記の世界最長記録は一日1行ずつ書くイスラエルだかの女性がいて、ワシのは2番目の長期記録のようだが、おかげさまで日記最長記録で“日本版ギネスブック”に載りました」。受話器の向こうで声が弾んでいた。
“川崎文化賞”受賞の、まさに地域の生き字引
何事も継続することは強い意思を伴う。中学1年のとき書き始め、昭和63年11月24日昼寝しながら眠るように86歳で最期を遂げる前日まで、その日のことを克明に綴った。白内障で入院したときはワラ半紙に手探りで書き、退院後清書した。小林さんの話には地名・人名・年号・数量・経緯などが湧き出してくる。手書きした情報がギッシリ頭に詰まった、まさに“生き字引”である。
大正12年(1923年)9月1日午前11時58分、マグニチュード7.9の大地震が起きたとき、台所で食事の用意をしていた女中さんが「キャア〜!」と大声を上げ、少年だった小林英男さんに抱きついてきた模様。昭和20年8月15日、天皇陛下の重大発表があると聞き、真夏の炎天下を武蔵小杉から川崎駅近くの川崎市役所まで行き、直立不動で天皇が敗戦を告げる“玉音放送”を聴いたときのシーン。その敗戦の翌日、16日の日記は<木曜晴。家長として家や家人の前途を考えると思いは切々・・・」と心境を綴っている。
小林さんの日記は、そのまま“郷土史”である。その証拠に小林さんは生前、川崎市が市民の中から年間1名を表彰する“川崎文化賞”を受賞されている。
|