◆写真などの画像は、クリックし拡大してご覧ください

no.1 1980年(昭和55年)創刊前のこと
タイトル/画像 本文
創刊前の体験


『とうよこ沿線』の基礎となった新聞連載


産経新聞連載コラム「ホープ登板」記事を複写し一冊にまとめた本

登場者有志で設立した<日本青年経営者協議会“燈心会”>会報



表紙は日本とタイの親善を深めるためタイ・バンコクで開いた日本雅楽会の雅楽演奏のとき。聴衆の前でソムサワリー王女と握手を交わす同協議会“燈心会”会長・黒澤聡樹さん


『とうよこ沿線』創刊の導火線となった新聞折込チラシ



A4の紙に墨一色、片面だけの地味なチラシ。多色刷りの派手な売り込みチラシの中で異色だったようだ
 
 子供の頃は新聞記者志望だったが・・・

 少年時代の夢は新聞記者だった。よく言えば好奇心旺盛、悪く言えば野次馬根性丸出しだったのだろう。記者なら見たいもの、行きたい所へ行ける仕事だろうと子供心に思っていた。
 
 中学時代は野球部で野球に夢中になっていた。高校時代には忘れられない体験があった。
 1年生の夏休みの終盤、頭髪が異常に抜け落ちることに気づいた。医者に診てもらうとホルモンのアンバランスによる病気であるという。上京して文京区音羽の東大病院で子牛の脳下垂体を尻ぺたに埋め込む手術などを行った。前橋日赤病院で定期的に頭部の患部注射を打った。いずれも効果がない。日ごとに頭髪の抜け落ちる量が増すばかり。思春期の高校時代、その悩みは深刻だった。頭髪の3分の1ほどが無くなっている私の頭をクラス担任の先生が後ろから見て、こう言った。「きょうから教科書を机の中に入れたまま帰りなさい! 岩田は予習復習を免除するぞ」。要するに勉強しないで遊びなさい! と解釈し、登校時にカバンを持たず、毎日漫画本などを見たりしてノラリクラリの日を過ごしていた。と、翌年の春、“茶褐色のサバク”に一斉に薄い毛髪が生えてきて、2カ月ほどで真っ黒の毛で覆われたのだった。所詮脳みその少ない者は限界以上に脳みそを使うことを金輪際止めることにした。
 大学時代は北海道、谷川岳と尾瀬など上越の山、北アルプス、屋久島など九州の山々を登ったり、東京六大学野球の応援で神宮球場に日参したりで結局、ろくすっぽ勉強もせず、記者志望の夢は叶わなかった。

 39歳で新聞記事の連載担当

 40に手が届く年頃のある日、大学時代の親友・鈴木健生君(ジャパン・イエローページ社長)から電話で「大手町の産経新聞本社の荒木悠三編集長に会わせるから出て来い!」という。 事前に打ち合わせ済みだったらしく、のっけから連載コラムの話に及び、あれよあれよという間に私がその担当記者ということになった。しかも、自分で連載紙面を企画し、取材したい人物の人選から交渉まですべてお任せという。願ってもない話が舞い込んだものだ。
 当時の私は横浜青年会議所のメンバーでもあったので、関東一円の青年会議所の中から将来性のあるユニークな人材を探して登場させるコラムタイトル<ホープ登板>という紙面を企画し、荒木編集長にその案を話した。具体的に取材候補者の名前十数名を挙げたら、「それは面白そうだね〜!」と喜んで快諾した。
 毎週2回、2人の人物紹介の連載である。ネタになりそうな人物についての情報を集めては取材交渉し、関東中を飛び歩いて取材した。帰宅してからは1文字1.5センチ四方の原稿枡に原稿を書く作業。1行が14文字。句読点でも1.5センチ四方の原稿枡を使うので、原稿用紙が大変な枚数になる。それが4枚複写のノーカーボン。編集長用、デスク用、整理部用、自分の控え用だ。毎週1回は執筆原稿を持っては大手町の産経本社に通った。
 けっこう好評で毎回の連載を楽しみにしている読者が多く、「まとめて本にして欲しい!」という便りや電話が新聞社に届いていることを知った。

 その話を出版業の親友に話したら、彼がその連載記事をコピーして本『青年経営者93人の生きざま』にまとめ、書店で販売してしまった。
 また、「ホープ登板」の紙面に登場した有志で名前だけはデッカイ<日本経営者協議会>、別名を“燈心会”と名づけ、会長に性格円満で寛容な人、黒澤聡樹さん(イカリ消毒且ミ長)をみんなで選んだ。「燈心」とはロウソクの芯で、細い糸を何本もよって作ったもので会員が各地域でそれぞれに「暗い一隅を照らそう」という会の理念を表した。私のちっぽけな脳みそを絞って総会の席で提案したら満場一致で賛同を得た。
 
 「ホープ登板」登場者の中には東横沿線に店を持つ亀屋万年堂の引地良一さん、山田照明の山田照夫さん、東天紅の平林克哉さんらがいて、後の『とうよこ沿線』発行に広告掲載していただき、大いに救われたのである。
 新聞連載「ホープ登板」は北陸地区や東北地区の青年会議所から「こちらの続編の連載を」との要望もあったが、以前の仕事で体験した“地域問題”に大いに関心があったので断った。

 金庫泥棒に大金を盗られる事件に遭う

 綱島街道の道路沿いの事務所(以前の編集室)で神奈川県内の建設業各職方の健保組合の事務局を頼まれ、やっている時のことである。暮れが押し迫った28日、集まった保険料と自分のボーナスを金庫に入れ、明日銀行へ事務の女性に入金してもらおうと思っていた矢先のこと。母屋から隣の事務所に行ってビックリ・・・。あるべき所に大金が入った金庫がない!? 外に回って1階入り口の鉄の扉の取っ手に触れた途端、ポトリと落ちた。何者かが、水道の鉄管などを切るパイプレンジで切り落として中に侵入したに違いない。金庫の中には1000万円以上の現金が入っていた。

 港北警察署に通報した。刑事・鑑識官など10人ほどが大挙して押しかけた。しばらくしてNHKニュースにも流れた。その中で「綱島街道沿いに連続2件の金庫ドロ。1件は綱島街道沿いの同じ並びの300メートルほど離れたパチンコ店の重さ500キロもある金庫」と報じた。刑事たちは近所を聞きまわったり、ある刑事は私の一人芝居でもあるのかと疑っているかのように根掘り葉掘り、訊く。私が「さっきのNHKニュースでその先でも金庫ドロにやられた、言っています。ホシは一つでしょう? 両方で捜査しなければ・・・」と助言(?)してもその刑事は「われわれは横浜の港北警察、あっちは川崎の中原警察」と反論するばかり。結局、犯人逮捕に至らなかった。

 1年以上も経ったある日、「お宅の金庫が工事中のドロの中から出てきました。犯人を現場検証に連れて行くから、事務所にいてください」と港北警察署から電話があった。その発見現場は、綱島街道沿いの同じ並び、日吉に近い松下通信の手前、日産の販売店を新設するために植木置き場をブルトーザーで整地中、「ガチャ〜ン」という音とともに金庫が出てきた。元住吉の元横綱・北の湖の妻の実家のパチンコ店の金庫もそこで見つかった。犯人はやはり同一犯で川崎競馬場近くでたむろしていた“プータロー2人組”の盗難車を使った犯行だった。
 横浜と川崎といった異なる行政区分と役人の縄張り意識、この“二つの盲点”をついた犯罪である。

綱島街道の暴走族


 その頃、真冬以外は毎週土曜・日曜・祝日の夜になると、暴走族の何十台ものバイクと車が群れをなし、綱島街道に現れ、街道の車道いっぱいに爆音をとどろかせ、ジグザグ運転で走り去る。深夜の大騒音に必ず目が覚めるのだ。通行の一般車両は道路端に車を止め、彼らが通り過ぎるのをじっと待っているだけ。日吉と元住吉の間を流れる矢上川の川沿いに暴走族を取り締まる白バイ第2機動隊本部がある「神奈川県警察学校」への見せしめのためだといわれている。また、取り締まるにしても、これも港北警察署と中原警察署の管轄で行政区境を行ったり来たりしていれば捕まらないことを彼らはちゃ〜んと承知しているのである。

 私は神奈川県条例で定めた神奈川県中小企業指導士という資格で県内の商店街の診断をやってきたが、行政区分が違うと活字情報は同一区分内でしか情報が流れないことを診断業務を通じて分かっていた。川崎市の元住吉地区で入れたチラシは横浜市の日吉地区には入ってこない。その逆の場合も、しかり。新聞も地域版はバラバラだ。
 例えば同じ朝日新聞を読んで都内の会社へ通勤する乗客でも横浜市街地の人は「朝日新聞横浜版」、綱島や日吉の人は「朝日の田園都市版」、川崎市内の人は「川崎版」、電車が多摩川鉄橋を渡ると「朝日新聞城南版」とマチマチの地域情報を読んで行動する生活である。いくら生活に役立つ情報があっても、行政区分が違えばその情報が入ってこない現状である。

東横沿線の「東京・川崎・横浜」を串刺しした活字媒体の必要性・・・

 そこで、私は考えた。東京・川崎・横浜という日本を代表する三大都市を走る東横線沿線地域を“串刺しにした活字媒体”があれば、どれほど沿線住民の生活に役立つだろうか。また、犯罪の温床となりやすい行政区境の犯罪防止にもつながるのではないだろうか。
 こう考えると、行動に移さないと気がすまないのが、私のせっかちな性分。まず、親しい友人知人を訪ね、私の構想を打診してみた。私の将来を思ってのことだろうが、みな、反対だった。「どうせ、1冊だけ出してツブれますよ。そんな危ないことは止めたほうがいい」とか「どうせ1〜2冊で行き詰る。どうせツブれるようなら最初からやらないほうが無難だ」と言ったような意見だった。

意見広告を書いた新聞折込チラシ


 「広い世間には、きっと私の構想に賛同してくれる人がいるはずだ!」。この信念で、私は自分で書いた意見広告を朝日新聞の3地区の日吉・武蔵小杉・菊名の専売所に8000枚のチラシを持って回り、新聞折込を頼んだ。
 何事もトライしてみるものだ。激励や賛同の電話が矢継ぎ早に掛かってくる。主婦、大学生、商店主、定年退職者、マスコミ関係者・・・。「一緒にやらせてください!」と会員希望者19名が現れた。
 
 いつも義母・鈴木善子と水泳のオリンピック強化選手だった石川君と3人でストーブを囲んで打ち合わせをやっていた創刊準備室が俄かに活気づいてきた。訪ねて来る新会員、問い合わせの電話が次々と・・・。お互いに面識のない新会員は職業、年齢、社会経験が違う。共通項は東横沿線在住であること、一冊の雑誌を一緒に発行するということで、知らないもの同士が何度か顔を合わせるうちに徐々に心が打ち解け、話せる仲になっていく。編集態勢が形になって創刊号の編集に取り組むことになった。

さくいんのページへ戻る  次ページへ
「とうよこ沿線」の TOPへ戻る
本誌編集発行人 岩田忠利