玉砕の地サイパン島生まれの茂夫少年。戦前・戦中・戦後の激動のなか、多感な男の子は何を考え、どんな体験をしてきたのか・・・。本人が率直に描く体験レポート!



No.8  収容所での子供の遊び

 
 母が炊事場に出かけたあと残されたわたしと利夫はすっかり解放感にひたってしまった。もう小さい弟たちの面倒を見る必要もなかった。今までいい子でいようと少し無理をしていたのかもしれなかった。「いい子だ」と喜んでくれる両親の顔を見ることもできなくなった。
 
 
 遊びを知らなかったわたし
 
 
南村ダンダンでは遊び仲間に恵まれなかったが、ここでは求めさえすればいくらでも相手はいた。小屋の外に出れば広場も広がっており、遊ぶ場所には事欠かなかった。

 生来わたしは集団遊びの体験に欠けていた。家ではホウオウボクの木に登るか、弟たちととりとめもないことに時を過ごした。学校では級友たちが校庭にラインをかき、二手に分かれて何かを競い合い汗を流していたが、わたしはすこし離れたところで屈んでそれを見ていた。遊び方を知らないので遊びの輪のなかに入りたくても入っていけなかったのである。真っ白なシャツで登校し真っ白なまま下校する始末だった。

 はさみ将棋とビー玉

 わたしが最初に楽しんだ遊びは「はさみ将棋」だった。駒の代用として貝殻を集めるのは簡単だった。集めた貝殻を横一列に並べ相手の駒を自分の駒2枚で前後・左右からはさんで取る。相手から駒を取り尽くすと勝ちとなる。
 相手を変えて当分の間は「はさみ将棋」に熱中した。二人で遊べてルールが単純なこの遊びは入門期のカリキュラムとして最適だった。遊ぶことの楽しさを知ったのだった。

 ビー玉(わたしたちはカッチン玉と言っていた)は、とりわけ面白かった。玉を作るところから遊びだった。柔らかそうで軽すぎない石を探す。具合の良い大きさ、形状、材質の石を見つける眼力が自然に養われた。硬い大きな石とこすり合わせて磨きながら球にしていくのだ。親指と人差し指で挟んで弾くとうまく転がる。限りなく球に近いほど思ったとおりの軌跡を描くことも知った。石の玉としては良品といえた。誰かが水を掛けながら擦ると効率が良いことに気づく。みな真似をした。塩辛くて臭(くさ)いので飲めないが、砂地を掘りさえすれば水はいくらでも湧いて出た。ボスが「勝負始め」の合図を告げるまでにいかに素早く良い玉を作り上げるかが勝負だった。自然に作業能率を意識するようになっていった。

 しかし石のビー玉は指で弾くには不向きである。わたしたちはもっぱら立ち姿勢で誰かの玉に当てるゲームに熱中した。ビー玉遊びは何人でも成り立つ長所があった。

 はさみ将棋用の貝殻はゲームが終わると捨てられたが、石のビー玉は各自がストックしていた。仲間の目のないところで密かに増産に励むこともあった。
 1個だけ本物のビー玉を持っている子がいた。3分の1は欠けてしまっていたが、マーブル玉だ。石の玉を何個そろえても交換してもらえぬほどの極品だった。いつかは手に入れてやろうとわたしたちは虎視眈々としていた。小屋から広場に出ていくときから「今日の目標」は、はっきりしているのだった。
 彼は、本物のビー玉の所持者というだけで存在感を示し羨望の的だった。目に特徴があって、通称「ガチャ目」と呼ばれていた。ヒーローがいるだけでみな勝負に燃えた。

  野球と相撲

  ある日、パンの木の広場で米兵チーム対抑留者チームによる野球の試合が行われたことがあった。わたしは野球というゲームを全く知らなかった。ただ、日米が勝ち負けを争うということで、勝敗の帰趨にのみ関心を持った。回が重なるにつれてゲームのあらましがわかるようになってきた。味方が優位な展開になると声援を送るようになった。いつの間にかゲームを楽しんでいたのだった。
 ピッチャーの投げ合いは下手投げの日本の投手が勝(まさ)っていた。一人好打者がいて、彼は3塁から本塁に駆け込むとき宙返りをしてみせた。応援席は抑留者ばかりだから、彼のパフォーマ ンスは拍手喝采だった。
 試合は結局抑留者チームの勝利に終わった。観戦していた抑留者が溜飲をさげ元気になったことを思えば、日米対抗の野球試合は軍政府の企画の勝利だったかもしれない。
 
 野球という遊びはすぐ子どもたちの間にひろまった。用具を整えるところから遊びはスタートした。
 ボールは小石を芯(しん)にして糸を巻いて作った。米軍の靴下をほどいた糸だ。適当な大きさの球になるよう丁寧に慎重に巻いていくのだ。バットは適当な枝を拾ってくる。回を重ねるたびに、ミートしやすく飛距離もでるバットが選べるようになっていった。ボールとバットがあれば野球は楽しめた。自然に三角ベースの試合になった。
 捕球とバットで動くボールにうまくミートするコツなどを繰り返し練習し身に着ける過程そのものが楽しい遊びだった。

 相撲もやった。島がまだ平和だった頃、夕食後のひと時、父はいかにも楽しげにわたしの挑戦を受けてくれた。上手に負けてくれるので、自分は強いものとばかり思っていた。誇らしかった。
 が、ここでは実力がすべてであった。だれもが真剣だった。食生活が改善され、洞窟での飢餓を忘れたかのように力と力をぶつけ合った。もうわたしも負けてばかりはいなかった。こうして、勝ったり負けたりしながら本物の友情が育っていった。

 鬼ごっこ

 食生活の改善でいまでも忘れがたいのがグリンピースを炊き込んだご飯である。炊事場で働く母たちの手によるものである。空腹を満たすことができ、通うべき学校がなく、手伝うべき家事がないわたしたちは、ただ遊びほうけてばかりいた。
 わたしと利夫は夕食をとっくに済ませ、母が帰宅した後も、星の下で“島民鬼”に熱中していることがあった。母の怖い顔も、悲しげな顔も念頭から去って遊び仲間の輪の中に入っていった。
 島民鬼は、「鬼ごっこ」と「かくれんぼ」をミックスしたような遊びだった。わたしは鬼から身を隠すために、いつもの広場から遠く離れた小屋の床下に潜んだりした。
 
 ジャンケン鬼も楽しかった。敵味方に分かれ陣地に拠る。遊撃戦が始まる。敵に遭遇するとジャンケンだ。負けたほうが逃げる。追われてつかまると敵の陣地に連れて行かれ捕虜になるのだ。味方のだれかが捕虜にタッチすると解放されるルールだった。しばしば捕虜になった。が、「味方のだれかがきっと助けに来てくれる」楽観しながら辛抱強く待った。
 今はたまたま有刺鉄線の中だが、やがて強い日本軍が自分たちを助けに来てくれる。最後は日本軍が勝つに決まっている。日本の運命に対しても楽観していた。


 バッタの飼育
 
 ガラバン側の有刺鉄線に沿(そ)って広い草地が拡がっていた。わたしの小屋からは遠く、また格別用もなかったのだが、子ども特有の好奇心から草地に足を踏み入れたことがあった。歩くと足下からバッタが一斉に飛び立った。草原を飛び交うバッタの中には有刺鉄線をらくらくと潜(くぐ)り抜けたり超えたりするものがあった。その飛翔の姿は実に魅惑的に思えた。なんと美しく自由なことか。

 わたしはバッタを飼育してみたいと思った。自由であるところに魅せられたはずなのに、狭い空間に閉じこめようとしていることの矛盾に気づくほど賢くなかった。
 まず、網を探してきた。木の枝で骨格になる構造物を作り上げる。網で覆う。10匹ほどバッタを草地から捕(と)ってきて網の中に放った。が、翌朝にはみな死んでいた。
 「そうだ。バッタは草の中で暮らしているのだ」
 さっそく、バッタの飛び交う草原に出向いた。何本かの草を根ごと抜き取ってきた。着根するまで何度も失敗した。順調に育ってくると再びバッタを放った。やはり死んでいた。草を抜くとき、 朝露に濡れていたことを思い出した。霧を吹きかけてやった。
 「よし、今度こそ」。やはり失敗だった。

 バッタの昆虫館はとうとう実現しなかった。バッタは自然の中だから生きていけるのだ。その掛け替えのない自然そのものを人工的に再現するなんて不可能だ・・・。大人になってやっと認識できたのだった。
 ただし、わたしが抑留中という環境のなかで試みたこととして何かしら価値があったような気がしている。

 天然色映画を観る

 遊びではないが、月のない夜広場で映画を観た。国民学校で国威発揚の宣伝映画を観た記憶はあるが、映画鑑賞を楽しんだことはなかった。
 アメリカ映画がカラーであることに驚いた。ワイズミューラー演ずるターザンの映画は定番だった。言葉は通じなくてもターザンやチーターに拍手を送った。
 シンクロナイズスイミング・フィギアスケートなどを美しいものとして好ましく思った。アメリカンフットボールをはじめスポーツものが多かった。
 やがて、遊びの中にターザンやチーターが登場するようになった。

 キャンプは情報のるつぼ

 陽(ひ)が落ちてあたりが暗くなると涼を求める人たちで賑やかになる。月の明るい夜や満天の星が降るような晩はそこここに人の輪ができるのである。

 誰かが軍歌を歌えば唱和する者がいる。黙って耳を傾ける者がいるかと思うと、突然歌い出す者もいる。わたしが知らなかった軍歌で好きだったのは「ああ我が戦友」だった。
 ♪満目百里雪白く 広袤(こうぼう)山河風あれて 枯れ木に宿る鳥もなく ただ上弦の月蒼(あお)し

 遠い満州が戦場の歌なのに、誰かが歌うとこみあげてくるものがあった。ほかに戦意を鼓舞するような軍歌を次々に歌ったが、ときにこんな歌も出てきた。
 
 ♪きのう生まれた豚の子が 蜂に刺されて名誉の戦死 豚の遺骨はいつ帰る・・・

 これはこれで唱和する者があった。わたしも歌い、覚えた。「非国民」呼ばわりする者はいなかった。

 民間捕虜収容所ではあったが、満州や北支(中国北部)方面で戦った兵士も何人かいた。彼らが語る極寒の地の自然や生活を私は興味深く聞いた。彼らはなぜか怪談話が得意だった。軍隊物の怪談もあった。
 「イー アル サン スー ウー リュー チー パー・・・ 」(1・2・3・4・5・・)
 昨夜耳にした雑学は子どもたちの遊びのなかに瞬く間に拡がった。(ターザンやチーターと同様に)

 キャンプでの遊びは無駄ではなかった

 正規の教育を受けることなく遊びほうけた1年半だったが、遊び体験に乏しかったわたしにとっては、人格形成上資するところもあったのではなかろうか。人との付き合いは理屈ではなく体験を通して学ぶものだから。

ビー玉のいろいろ
現代のビー玉。左から普通のガラスのビー玉、マーブル玉、錦玉
明治時代、泥で作った「泥玉」。左が関東ローム層の粘土質の赤土で作った泥玉。右が関西の粘土質の黒土で作った泥玉
文中に出てくるマーブル玉



























































































ターザン映画とワイズミュラー
 米水泳短距離オリンピック優勝者のJ.ワイズミュラーのデビュー作。
 ターザン俳優は16人いたが、6代目ターザン役の彼と比肩できる役者はいなかった。その後12本のワイズミュラー=ターザン映画が一世を風靡した。子供の頃、庭の木の上で遊んだ記憶も、すべてターザン映画の影響である。
 ジェーン、ボーイ、チータを含め、まさにメルヘンの世界であった。チンパンジーのチータの演技(?)はアカデミー賞ものと言われるほどだった
 昭和4年(1929年)夏、中央が二子玉川の玉川プールで全日本代表選手と競泳のため来日したワイズミュラー選手。下の男の子は森光世さん(写真提供者)。左がドイツの五輪金メダリスト・アルネボルグ選手、右が100メートル自由形五輪銅メダリスト・高石勝男選手
 世界記録を24回も塗り替えた超人的な水泳選手の
ワイズミュラーは身長190センチ、体重90キロの堂々たる体格のうえにハンサム、世界的な人気者であった。
 写真中央に「Henry Weissmuller」のサイン入り     
『とうよこ沿線』40号から
 現在多摩川端にある東急自動車学校の所は「玉川プール」があった場所で、昭和4年当時ここが日本で唯一の国際競泳公認プールであった。
 昭和4年(1929年)アムステルダム五輪開催の年。この大会で優勝した世界の水の覇者を朝日新聞社の招きで米・独・豪から来日、ワイズミュラー選手もその一人。
 写真は第9回アムスステルダム五輪で大活躍し第1期水泳王国ニッポンを築いた日本選手団
           『とうよこ沿線』40号から
軍歌とは何ぞや?
 昭和12年(1937年)2月、東横線綱島駅東口駅前で出征兵士(左)は軍歌「出征兵士を送る歌」の演奏に送られ戦線へ。
 戦地に赴く男性が多く、地元の大綱青年団は出征式に軍歌を演奏する「綱島音楽隊」を組織した
   「とうよこ沿線」61号から 
「軍歌、戦時歌謡」で検索
上記サイトに戦時中歌われた「軍歌」、「戦時歌謡」の歌詞が載っている
「YouTube-<軍歌>出征兵士を送る歌」で検索
上記「ユーチューブ」のサイトには歌手・伊藤久男が歌う軍歌「出征兵士を送る歌」「神風特攻隊」「荒鷲の歌」「同期の桜」「暁に祈る」「嗚呼玉杯に花受けて」「戦友」「異国の丘」「露営の歌」「惜別の歌」「父よあなたは強かった」などが聴ける


  

企画/編集 岩田 忠利(当サイト主宰者)
イラスト 阿部 紀子(イラストレーター。新宿区市谷)
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