想像を絶する爆撃の凄さ!
6月11日(日曜日)。すでに昼近かった。太陽がギラギラと照り、 空は抜けるように青かった。
突然、伝令が駆け込んできた。召集だ。緊張が走った。
「アメリカの艦隊が接近中だそうです」
橋本兵曹長は、小声で母に耳打ちすると、火の始末を終えるや身支度を整えた。イザというときの兵隊たちの行動は実に素早かった。おもいおもいに休日を楽しんでいた彼らは、たちまちアスリート飛行場の防空を任務とする勇士に立ち戻ったのだった。
昼過ぎ、空襲警報があった。
屋根の上を高く飛ぶ1機のグラマンが急降下しながらサトウキビ畑の向こうに消えた。波状攻撃の先触れだった。
ホウオウボクの下の防空壕に避難した。木陰ではあったが壕の中は蒸し暑かった。空襲警報発令があって爆撃が止むまでの長い間、ずっと息を潜めていた。次第に息苦しくなった。末弟の勝は昨年7月に生まれた赤ちゃんで、母に抱かれておびえていた。
半月前のある夜、わたしの不注意で石油ランプが倒れ、失火したことがあった。そのとき勝の右手に軽い火傷を負わせてしまった。そんな事情もあって、どうかするとむずかって泣くのだった。
高射砲陣地へは家から200メートル足らずのサトウキビ畑の跡にあった。 わたしや利夫は陣地のことをよく知っていた。構築に着手して完成まで一部始終を見ていたからだ。
「高角50度。東経・・・」
2人は見てきた訓練の様子を真似て遊んだものだ。山本兵曹長が手旗信号で「ハシモト ヘイソウ ノ、パンツ ヤブレテイル」・・・とやったのが、おかしかった。手旗信号も真似て遊んだ。愉快だった。兵隊も子どもも、まだのんびりしたものだった。高射砲24門のほかに機関銃まで据えられていて、子どもの眼からも磐石なものに映った。心から安心しきっていた。
わたしたちが楽しんでいた高射砲陣地のあたりは、いまや戦闘の修羅場と化しているはずだった。爆弾や機銃掃射の音が間断なく聞こえた。が、防空壕からは、どこか遠くで展開されている戦闘のように感じられた。
上空を近く、遠く飛び去る爆撃機の気配を感じた。「キーン」という爆音は耳に馴染んだわが国のそれとは違っていた。わたしが思わず身を乗り出して父に強く叱責された。いつもと違う父だった。
爆弾が破裂する音や機銃掃射の音は、間断なく聞こえた。思い出したように砲弾の炸裂音が混じるのだった。
赤い花が満開のホウオウボクを透かして見ると、時折グラマン機が編隊で去っていくのが見えた。
空襲警報解除
空襲警報解除となり、やっと外の空気を吸うことができた。心 からホッとした。昼前にはあれほど青かった空が、ソウシジュ林の向こうで黄色く染まっていた。
夕方には静けさが戻った。母が炊いた白米のご飯が美味しかった。わが家に滞留している兵隊たちも戻ってきた。
彼らの語るところによれば、敵の攻撃の激しさは想像を絶するものだったらしい。グラマン機やロッキード機が編隊で波状攻撃をしかけてくるという。撃っても撃っても次々とやってくる。急降下爆撃や機銃掃射の後は、悠々と去っていくというのだ。撃墜どころではなかったらしい。やぐら状の戦闘指揮所で指揮中の部隊長の首が爆風で飛ばされたという話
には驚かされた。いつかサンスベリアの径をやってきた将校かもしれないと思うと、痛ましく思えた。
「敵に向かって小便をしてやった」前田軍曹の言だった。勇ましく聞こえたが、これは強がりというものであろう。
構築から発射訓練まで見続けてきて、これなら無敵と子どもながらに誇らしかった。そんな高射砲陣地だったのだが・・・。
「アスリート飛行場に駐機中の飛行機9機炎上、高射砲25連隊の24門中の約半数が使用不能・・・」と、ある戦記にある。アスリート飛行場は戦略上から真っ先に敵の攻撃目標になってしまっ
たようだ。戦闘の激しさがこれでも想像できる。
警報解除になっても不安が去ったわけではなかった。とにかく屋根の下で夜の眠りにつくことができただけでも、有り難かった。
5時間で480機が銃爆撃!
明けて12日午前3時過ぎ、空襲警報で目覚めた。
早朝から激しい爆撃にさらされた。
「5時間で延べ480機がアスリート飛行場とタナバク港を中心に銃爆撃を加えた」というのが 米側の記録である。
それでも日本側の「現地司令部は、初めこれが米軍のマリアナ進攻の序幕とは考えず、多方面作戦の牽制であ ろうと判断していた」ということだから、少なくとも現地司令部には緊張感が欠けていたと見るべきだろう。
橋本兵曹長も父もまだ一過性のものと楽観していた。
帰宅してみると・・・
2日目の夕方、わが家の被害状況はひどかった。家財道具や棚の上の雑物が部屋中に散乱していた。畜舎に3頭いた牛のうち1頭が被弾して深手を負っていた。
「自分たちは明朝4時に配置につきます。ここはもう危険です。皆さんは海岸近くの洞窟に避難してください」。
昨夜のうちに兵隊たちから伝えられていた私たちは、13日暁暗その日の食糧と僅かな衣類だけを携え、空のあたりを警戒しながら目的地に向かった。
牛 はすべて解き放ってきた。まだ暗かったが、慣れた畑の中の道を抜け、潮の香り漂うジャングルへと入って行った。昼ならつやつやと緑豊かな熱帯樹が鬱蒼と茂っているはずだった。そのなかに身を置くだけでも敵の攻撃から守られている
ような安心感があった。
洞窟の中の人間模様
自然の洞窟は奥の方までかなり広かった。硬い岩で覆われていて、「これなら爆弾が落ちてきても、もう大丈夫。防空壕よりずっと頼りになるね」。
壕の内部は時間がゆっくりと流れた。次第に息苦しさを覚え始めた。暗さに慣れてくると内部の様子が少しずつ見えてきた。
驚いたことに、入口から奥の方まで人、人、人・・・だった。負傷兵が横たわっている。むずかって泣く赤ちゃんがいる。すると負傷兵の一人が怒声を発するのだ。
「敵の目標になる。赤ん坊を泣かすな!!」
戦う兵隊でありながら、こうしてじっと横たわっていなければならない惨めさ、屈辱感が言わせるのだろうか。とにかく苛立っているのだった。
父が一人の負傷兵に呼ばれた。平素から父を知る心安さからかウチワであおぐよう命じた。多くの人間を飲み込んだ洞窟の内部は、耐え難いほどの蒸し暑さなのだ。父は辛抱強く、終日その兵に付き添っていた。
こんな状況であるからこそ、家族が頼りにするのは父親なのである。片時でもそばにいて欲しかった。それなのに、ずっと奥の方に呼ばれていて、汗びっしょりになっているではないか。
「あんな遠くで、ずいぶん辛いことをさせられている」
そう思ったら、わがままなその兵隊のことが少し憎く思われた。彼が負傷兵とし て、いまどんな苦痛に耐えているのかを思い遣るゆとりはなかった。父は、ときどき家族を気遣うような視線を送ってきた。母はそんな素振りを感ずるだけで充分だったのだろう
か。
暗くなる前にいったん家に戻った。が、そこはすでに廃墟だっ た。爆撃は前日にもまして激しかったようだった。軍からの情報によると、この日から艦砲射撃も始まったらしい。洞窟内にひそんでいて戦場の気配がほとんど伝わってこないので、わたしたちはこの戦況の重大な転機を知るすべはなかった。
6月14日、この日も洞窟に逃れた。終日、激しい艦砲射撃が続いたということだった。
夕方、チンク油を全身に塗られた兵隊が1人、洞窟の入口に現れた。真っ白なミイラ人間のような姿は異様だった。驚いたことに、「うちの兵隊さん」の森2等兵だった。
「高射砲陣地は艦砲射 撃と銃爆撃で壊滅状態です。お世話になった12名のなかには戦死 した者もだいぶいます」
彼は北支の戦闘で兵役義務を果たし、退役後は文字通り一家の柱として家業である農耕に励んでいた。わが軍の戦況が思わしくないいま、予備役招集として、今度は南洋の戦場へと送られてきたのだった。兵としては歳をとりすぎ、軍隊の中でさしていいこともなく
、今こんな目に遭わなければならないのを気の毒に思った。
|
 |
母の手になる汁粉などを兵隊たちにお裾分けすることがあったが、下士官たちがほとんど平らげてしまって、2等兵や新兵の口 には入らなかった。母が気の毒がって彼らにこっそり届けていた。今生の別れのつもりであろうか。森2等兵は母から受けた好意に対して謝辞を述べるのだった。
しばらくすると凛々しく気丈な兵が入口で佇立しているのが見えた。
「栗原さん、長いことお世話になりましタ〜。自分をはじめ無傷な兵は、これからアグイガン方面に向かいマス。敵の上陸を阻止するためでありマス。敵は恐らく明日あたり西海岸からの上陸を試みるものと思われマス。一部はアスリート飛行場をめざすでしょう。そうなれば、ここも危険でありマス。今夜中に東海岸沿いにタッポーチョ方面に向か
って避難してくだサイ!」。
入口あたりが暗く、姿からは分からなかった。が、声で分かった。なんと橋本兵曹長だったのだ。朝夕、素振りを欠かさなかった愛用の日本刀を杖に直立不動で立っていた。彼の決意を耳にし
、また、あくまで民間人を守り抜こうとの古武士らしい真情に触れ、子どもながらに感動を覚えたのだった。
「生きていたら、また、どこかで会いましょう!」
これが最後の言葉となった。 |
|
 |
昭和19年6月15日、確かに軽巡洋艦と重巡洋艦インディアナポリスはサイパン島に接近していた |
 |
米軍はアッツ島を玉砕して1年後のこと、こんどは昭和19年6月、米軍海兵隊が上陸用舟艇でサイパン島に大挙上陸してきた |
|
 |
綿のような白い雲の間から現れる重爆撃機B-29。あの「グ〜〜」と地響きする低音で不気味に聞こえる唸る音・・・。われわれ日本人はあの音を決して忘れることができない。日本本土の主要54都市の無差別じゅうたん爆撃、広島と長崎の原爆投下・・・。サイパンの空にも編隊で現れた・・・ |
|
|
 |
投下した爆弾は次々爆発炎上、地上のありとあらゆる物を焼き尽くすのだった |
 |
人間同士の醜い戦争をあざ笑うがごとく、わが家の庭のホウオウボク(鳳凰木)は今が盛りと咲き誇っていた |
|