読売新聞での私の記事を読んだお三方の女性から電話をいただきました。そのうちのお二方と相鉄線二俣川駅前の喫茶店でお会いしました。そのとき、安楽多寿子さんから下記の手記を預かりました。

No.16  反響 No.3「サイパンでの戦争体験」
執筆者・安楽多寿子さん
      (横浜市瀬谷区在住)
      
           想像を絶する戦争体験


 読売新聞の記事を読まれた3名の方から相次いで電話をいただきました。瀬谷区の安楽さん、旭区の河原さんのお二方と相鉄線二俣川駅の改札口で待ち合わせをしたのは、今年8月24日でした。安楽さんは現在84歳というご高齢で足がご不自由ということでした。
 安楽さんのお住まいはサイパン島第一の繁華街ガラパンでしたが、街が猛爆にさらされたときは、17歳の電話交換手だったということでした。
 ご家族・ご親族の逃避行は日本軍兵士たちと一緒だったこともあり、想像を絶する体験をされたようです。
 開拓移民としては不本意な結果となったこともあり、サイパン高等女学校への進学を断念せざるを得なかったことを残念がられておられました。


南洋の移民と戦争     手記 安楽多寿子

サイパン島、テニアン島、ロタ島

   1934年(昭和9年)9月、サトウキビの生産者として生きるために南洋興発株式会社(南興)の移民募集に応じ、南の島に向かいました。私が7歳のときでした。
 サイパン島、テニアン島、ロタ島に分けられ、私たち家族はロタ島に決まりました。3島でいちばん小さい島です。島に着き、南興の社員に連れて行かれた先はタルガという所でした。

 父は広い農地を求めていました。が、タルガの農地は狭いので先ずジャングルを伐採することから始めました。ところが、作業中何かにつまずき転倒、切り株の先が目に刺さり、片目を失明してしまいました。父はしばらくの間、仕事をできずにいました。私が尋常小学校1年生のときです。
 
 
サトウキビ畑を3度も転地

 
うっそうと繁るサトウキビ畑
父はタルガより農地が広く、近くにはサトウキビを運ぶための軽便鉄道もあるルギーという所を見つけました。早速そこに移りました。
 働けるようになった父は、サトウキビを植え付け、収穫もできるようになりました。サトウキビを運ぶためのカレータと牛も手に入れました。サトウキビを興発に出荷できるようになって4年が経ちました。
 生産者として張り切って農作業に励む毎日でした。が、突然興発からサトウキビの生産を閉鎖する話がありました。
 ロタ島一番大きな町ソンソンに引っ越すことになりました。このころ移民の人たちはロタの島を離れ始めました。子どもの私に確かなことはわかりかねたのですが、この島の製糖は採算が悪かったようです。
 
 
サイパン高等女学校進学を断念、電話交換手に

 6年生のときサイパン島に渡り、ガラパン第一国民学校に入学しました。興発の移民募集に応じたものの4年あまりで夢破れ、何の保証もなく置き去りにされました。本土に帰るお金はなく、サイパンでの生活も惨めなものでした。 憧れのサイパン高等女学校へは進学できず、サイパン郵便電話局交換手として働かざるを得ませんでした。
  
安楽さん憧れの、戦前のサイパン高等女学校
1944年(昭和19年)6月11日、私は小走りで家を出ました。日勤だったために夜勤の交換手と交代するために……。
 郵便局に向かう途中で兵隊さんに呼び止められました。
 「どこへ行くんだ?」
と聞かれたので
 「私は局の交換手で夜勤の人と交代に行くんです」
と答えると
 「もう局はやられてしまった。すぐ家に帰りなさい」 と言われ、走って家に帰りました。
 家には誰もいませんでした。防空壕にも……。(山に逃げるしかないな)と思い、島でいちばん高い山タッポーチョをめざして麓を小走りに登って行きました。大勢の人々が急ぎ足で登って行く中を(うちの家族はいないか? )と右を見たり左を見たりしながら登りました。
 諦めかけていたとき、運良く家族を見つけ出すことができました。みんなで手を取り合って喜び合いながら、さらに上をめざして登って行きました。
 
 喉の渇きに耐えかね自分の小水を飲む

 私の姉は2歳の子を連れて、たまたまガラパンの父母の家に来ていて空襲の中を自宅へ帰ることもできず私たちと一緒に避難することになったのでした。姉の夫はチャランカノアの製糖工場で働いていたので夫婦は戦禍のなかを別々に避難することになりました。二人はその後二度と会うことはできませんでした。
 2カ月近く、夜になると道なき道を避難する毎日でした。最後にたどり着いた所は崖の中腹にある結構広い洞窟でした。兵隊と民間人でいっぱいでした。
 サイパンは川や湧水がなく、各家にコンクリートの大きなタンクがあり、天水を溜めて飲料水にしていました。が、近くに家らしきものはなく、大変水に困りました。とうとう、私は自分の小水を飲んでしまいました。3回繰り返し飲むと、とても辛くなり、飲めば飲むほど余計に苦しくなるばかりで、それ以上口にすることはできなくなりました。
 
 
可愛い甥の絞殺を兵士に頼む姉

 水分不足の姉はお乳が出なくなってしまいました。2歳の義雄ちゃんは「オブー、オブー」と泣き叫びます。すると兵隊たちが
 「そんなに泣かれたら米兵に見つかるじゃないかッ! 殺せ、殺せ!」
と口々に怒鳴ります。
 姉は兵隊たち責められるのに耐えきれず、泣きながら「誰か殺してください!」と頼みました。
 兵隊の一人が立ち上がりました。義雄ちゃんの声は一瞬にして止まってしまいました。家族はその場面をとても見ていられませんでした。姉は息のないわが子を抱きしめ、「ゴメンネ! ゴメンネ!」と泣き崩れました。涙いっぱいの私たちもみな義雄ちゃんを抱きしめ、別れを告げました。誰かに踏まれないようなところに移し、そろって手を合わせました。いまでもあの場面を思い出すと、胸が張り裂ける思いです。

 
生きる気力を失った姉の最後

 母は水を探しに行く決心をしました。父に
 「夜道は危ないので、私たちが水を持ってくるのを待っててくださいね」
と告げると、弟2人、姉、私も一緒に崖を登り始めました。まもなくすると、姉が、
 「お母さん、わたし登れないわ」
と座り込んでしまいました。母も大変困り、
 「それなら水を探して帰ってくるまでお父さんの所に行っててね」
と言うしかありませんでした。洞窟に戻る後ろ姿が私の目にする姉の最後となりました。

 
命拾いの逃避行

 崖の上まで2人の弟は身軽にさっさと登るけれども、母と私はやっとの思いで上に出ました。20人くらいの人たちが歩いていくのが見えたので、私たちも後からついて歩き出しました。登るころはまだ明るく前方もよく見えていましたが、歩くうちに次第に暗くなり足下も見づらくなってきました。米軍の陣地の側とは知らず、前を行く人たちについて歩いていきました。
 足音で気づかれてしまったのか、突然銃を撃ち込まれました。私たちの前を行く人たちが畑の中を走って逃げたので銃をバンバン撃ってきました。しんがりを歩く私たちはあまりにも敵陣地の近くにいることに気づきました。何発も揚がる照明弾がおさまるまで息を殺してじっと伏せていたので敵に気づかれずにすみました。100メートルくらい這って行き、立ち上がり、農家をさがしたけれども見つかりませんでした。
 弟2人をその場に残すと、私と母はサトウキビ畑をさがし始めました。薄暗い中から「ボォ~ッ」とギンバイ(銀蝿)が飛び立つ音がしました。近づいてよく見ると死体が横たわっていました。
 通り過ぎてさらに行った所にサトウキビ畑を見つけました。が、サトウキビは焼かれてしまっているため、かなかなか折れません。歯で食いちぎっているうちに夜が明け始めました。食いちぎった少しばかりのサトウキビを抱え、弟たちの待つ所へ向かいました。
 弟たちの所に戻ったときには夜が明けてきました。サトウキビは久しぶりの水分なので、弟たちは夢中で食べました。

 
連行され、米兵に水とチョコレートを貰う

 昼頃、上の方から「デテコイ デテコイ」とマイクで呼びかける声が聞こえてきました。「出て行くと殺される」と、母は子どもたちを両手で囲みました。みんなじっと小さくなっていました。
 しばらくして母が言いました。
ススペ捕虜収容所に連行された子どもと母親たち
「どうせ殺されるなら米兵から水をもらって腹いっぱい飲んで死にましょう!」
 子どもたちを連れ、手を挙げて出て行ったのです。恐怖で体が震えました。意外にも怖いと思っていた米兵が私たちにコップで水をくれたのです。3日ぶりに飲んだ水のおいしかったことは言葉では表現できないくらいでした。チョコレートもくれました。覚悟はしているものの、毒が入っているのではないかとなかなか口に入れられず手にしたままでいると
米兵が口に入れる真似をしました。それでも日本兵のデマが頭から離れません。
 そのうち10人くらいの日本人が乗ったトラックがやってきて私たち親子を乗せ、また走り出しました。途中5~6人ずつを何カ所かで乗せたのでトラックの上は人でいっぱいになりました。どこへ連れていかれるのだろうと不安でした。

 
捕虜収容所内の日本語を話す米兵

 着いた所は米軍が上陸したススペの海岸近くでした。バラ線(有刺鉄線のこと)で囲まれた収容所に入れられると、私たちが降りる所に収容されていた大勢の人たちが集まってきました。後で聞いたのですが、離ればなれになった肉親がいないか見にきたのだそうです。ここに集めて殺されるのかと不安でした。
 収容所の中には屋根だけの建物がたくさん建てられていて、床はなく砂の上に寝ました。
 1週間くらい経ったとき日本語が話せる2世の米兵が来たので「私たちをいつ殺すの?」と聞いたら米兵は「収容した人は殺さないよ」とニコニコと話してくれたのです。(本当かなあ?)と思いつつ少しほっとしました。
 収容された人たちが下痢などで日に20~30人死ぬことがあります。すると収容所内に大きな穴を掘り、ゴミでも捨てるかのように放り込みブルドーザで砂をかぶせます。
 離ればなれになった父や姉を助けたいと米兵に頼んだのですが「アブナイ アブナイ」と言って受け付けません。ジープで山に向かったとしても日本兵が隠れていて、見つかると銃でやられてしまうと言うのです。「そう、助けられないの……」と母は肩を落としました。
 収容所では日に2回食べ物が与えられました。そんなころから「これでは私たちを殺さないのではないか」と言う人がいました。
 

 
11月末、佐世保港に帰港

 8月のある日、収容所内に設けられたスピーカーから無条件降伏を報ずる天皇陛下の声を聞きました。本当に戦争が終わったのだろうか? 半信半疑でした。
 11月に入って日本に帰れるという話を耳にしました。本土は冬なのに冬着がないことが心配でした。11月の末頃、帰る日が決まり、日本の駆逐艦で1週間かけて佐世保港に帰港しました。船酔いでフラフラしながら本土の土を踏みました。思った通りの寒さに震え、講堂らしき所に連れていかれても皆寒そうでした。
 4~5日いて、それぞれのふるさとに向かいました。ふるさと鹿児島に帰ってからの母の苦労は大変なものでした。
 

 
父、姉、兄2人、甥と5人の家族を奪った戦争とは、何だったのか?

 それにしてもあの戦争はいったい何だったのだろう? 開拓移民として南の島に渡った父は、片目を失いながら移民としての何のメリットも得ることもなく戦争の犠牲になってしまいました。
昭和48年33回忌慰霊で島を訪れた折、飛行場に残されていた戦車

 サイパン島の土となった家族に一日も早く哀悼の気持ちを伝えたくて、昭和48年、島に向かいました。そのころはまだホテルや商店は少なく、島の人の家に泊めてもらいました。
 南洋の“砂糖王”であり移民考案者だった松江春次の銅像を見上げたとき、移民の失敗を思い「お父さんを帰して~!」と心に叫んでいました。2人の兄もパラオ島で現地召集され、アンガール島で戦死しました。
 私たち家族は太平洋戦争で5人の命を失いました。改めて声を大にして問いたいです。
 「昭和16年12月8日に始まったこの戦争はいったい何だったんだろうか……」と。
 
※ 戦時下の掲載写真は、東海大学の「鳥飼行博研究室」ホームページ、http://www.geocities.jp/torikai007/war/1944/saipan.html から転載させていただきました。
企画/編集 岩田 忠利(当サイト主宰者)
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