神奈川新聞の記事をお読みになった女性からお電話をいただきました。話すうちに私と同じサイパン島で悲惨な戦争体験をされた宮川てる子さんという方でした。すぐに意気投合、関内で会うことに。積もる話のなかで意外な事実が次々分かってきました。そして帰り際、彼女からワープロで打った手記を手渡されました。

No.15  反響 No.2「サイパンでの戦争体験」
執筆者・宮川てる子さん
       (横浜市南区在住)


      
       同じ学校の同級生だったとは?!


 横浜市南区在住の宮川さんと関内でお会いしたのは今年9月15日でした。神奈川新聞に掲載された記事が縁の初対面でした。同じサイパン島で戦禍に見舞われ、民間捕虜収容所での抑留生活など特異な体験を共有する二人は、まるで旧知の友であるかのように当時のことを語り合いました。
 彼女の手記にあるように、栗原一家よりはるかに悲惨な戦争体験をされていました。「栗原さんはお母様とご一緒だったから、まだ幸せですよ」と何度もつぶやいておられました。
 話し込むうちに二人が同じ昭和17年アスリート国民学校の1年生であったこと、運動会で「兵隊さんよ ありがとう」の遊戯を同じ輪の中で踊ったことを知りました。
 「わたしにとって戦争はまだ終わっていない」の一言を残し、栄養失調で片方の肺を失ったという無理の利かないお体をいたわるように歩み去る彼女の後ろ姿を痛ましい思いで見送りました。


死線を越えて     手記 宮川てる子
 
 
 1944年(昭19年)6月15日、マリアナ諸島・サイパン島に米軍が上陸、戦争が開始されました。私は両親と5人姉妹の7人家族の次女として、1935年(昭和10年)にサイパン島で生れました。
戦争の始まる前の島は、果物が豊富で、山野は蝶や花々
サイパン島の花
ピーコックフラワー ニンニクカズラ
で満ちあふれ、島を囲む海は青く透明で、静かな幸せの楽園でした,
 それが米軍の上陸により一転してしまいました。
 私たちの家は壁に天皇・皇后の写真を掲げ、朝夕拝まされ、「♪今日も学校へ行けるのは 兵隊さんのおかげです」の唱歌を、毎日歌っていました。その頃、描く絵はみな日の丸の飛行機・軍艦そんなものばかりでした。
 叔父と叔母の家族が町から避難してきて、3家族18入になりました。父は、3家族18人の入れる大きな防空壕を掘り、その壕には戦争が始まって3日間だけ、私たちは避難しました。その中には3家族の大事な物、ミシン・アルバム・勉強道具・鏡など、それでもゆったりとした大きな壕でした。
 父と母は、昼は防空壕に潜り、夜は18入の食事の世話に追われました。
 
 
陸から海から空からも爆弾が飛び交う
 

 戦争が激しくなり、陸から海から空からも雨のように爆弾が飛んできました。あるとき米軍の飛行機が低空で不気味な音をたてて近づいてきました。その時私は一人で壕を出てバナナの葉陰でオシッコをしていました。身を乗り出して見るとトンボの目のようなメガネと帽子を被った飛行兵2人の姿が見えました。その銃口が私に向けられていました。バナナの葉が裂ける音がして弾が私の肩からお尻の方へかすめて地面に突き刺さりました。
  
 3家族18人、必死の逃避行


 ますます戦闘が激しくなってきました。日本の兵隊が来て山の方へ行くように父に命令していました。私たち3家族は仕方がなく食料と水を持てるだけ持って壕を出ました。
 私は木でできた大きな鍋蓋を頭にのせて走りました。鍋蓋が走るたびにカタン、カタンと頭に打ち付け、そのうちコブができて痛かったので途中で捨てて走りました。 北へ北へと避難する人たち、中には荷車を引く人もいて、身動きができず、なかなか前に進みません。朝、上陸した米軍は後方から戦車と兵隊でどんどん追撃してきます。途中、若い日本の兵隊さんが日の丸に覆われたまま血だらけで死んでいました。恐怖でいっぱいでした。 
  
 私たちは昼間は岩陰に隠れ、砲撃の止んだ夜に行動しました。夜は夜で米軍は照明弾を打ち上げ、その直後に砲弾が飛んできました。父は「伏せろ、動くな」と怒鳴っていました。空腹と喉の渇きで死にそうです。
 やっと水場に辿り着きましたが、川は力尽きた怪我人と牛のように腹が膨れ上がった死体でいっぱいでした。死体にはウジが湧き、魚も死んでいました。兵隊が我々に向かって叫んでいました。
  「毒が入っているから飲むな! 上流へ行け!」
 昨日までかじっていた生米も生芋も食べつくして何もありません。父がどこからか水筒に水を持ってきました。一口ずつ分けて飲みました。そして「いまに日本軍が助けに来るから元気を出せ」と声をかけ合って歩きました。子供たちは大人が背負って逃げました。
 
 
さながら地獄絵を見ているよう

 あれから幾日、山中を彷徨したのか、身を隠す防空壕は破壊されつくし、岩陰にいた時です。頭上の岩に爆弾が落とされ、私たち全員は無事でしたが、大きな石と砂塵が紙一重のところを落下してきました。近くにいたお爺さんの頭に何かが刺さり、上半身裸で頭から真赤な血が吹き出し、気が変になったのか意味不明なことを口走っていました。が、そのうち声がしなくなりました。兵隊さんがあちこちで、「バンザイ!」を叫んで死んでゆきました。 
 父が垂直の岩壁を一人一人抱きあげて、わずかな横穴に私たちを入れて「ここも危ないから寝るな!」と小声で言いました。断崖に張り付いていたとき眼下に米兵が見えました。戦車を先頭に銃口を辺りに向けながら前進してきました。
 もう逃げられません、地の果てに来たようでした。歩いている人影は無く、死体の間から死にかけている人の呻き声が聞こえるだけでした。縁の島の木々はチリチリに燃えています。大量の爆弾がすべてを焼き尽くしたのです。 

 

 叔母が、従兄弟が、母が息絶える

               
 大人たちは死に場所の相談をしています。「鬼畜米兵に捕まったら女は股を裂かれ、男は眼をえぐられて最後は戦車で轢き殺される」。
 私たちは水を飲んでから死のうと山を出ました。サトウビ畑の焼け跡でした。サラサラと瀬音が聞こえ、「水だ、水だ!」。叫ぶ従兄弟の武兄チャンが何かを歌い出しました。月が真昼のように照っていました。その時です。銃弾が一斉に飛んできて、みんなバタバタと伏せました。叔母は私の手を引きずるように伏せました。銃弾がやんだので叔母を起こしたが返事がない、見たら脳みそが飛び出していました。私は、皆のかたまりの中に一人走りました。
 そこには男たちの七転八倒で血だるまの姿、そのうち武兄チャンが動かなくなりました。姉と私と妹は母にすがりついていました。叔父が短刀を振りかざしています。私は動かなくなった母の兵児帯をほどいて母の顔を覆ってあげました。
 苦しんでいない安らかな顔、もしかして死んでいる振りをしているのでは? まさか……。その時、私たちは銃を持った米軍に包囲されていました。
 
 
抱きかかえられ捕虜に
 

 突然、背後から抱き抱えられ捕虜に。私たち3人姉妹はジープに乗せられ、連れて行かれました。そして水を何杯も何杯も飲ませてくれました。母に父に飲ませてやりたいと切に思いました。囚われの身になりましたが日本軍が助けに来てくれるかも知れない。走るジープから「日本の兵隊さん 助けて~!」と山に向かって大声で叫びましたが、直ぐに口を塞がれてしまいました。私たち3人は抱き合って、大丈夫、大丈夫と言いながら震えていました。
 
 
生き残ったのは18人中、7人だけ

 叔母たち4人は箱のような十字の付いた車に乗せられ、そして私たち3人は収容所に連れて行かれました。収容所は大勢の人たちでごったがえしていました。私たちが最後に捕まったようでした。避難を共にした18人中、生き残ったのは女ばかりの7人だけで、心細くて泣いてばかりでした。姉と私は妹と3人だけになり他の姉妹は、山中で私が眠り込んでいるとき、既に事が成されたことを後で聞きました。共に山中を彷徨した叔母たちは4人になって、みな抜け殼のように無口で痛々しく声もかけられませんでした。
 収容所に父方の親戚が迎えに来てくれていましたが、私は病気だったのか、米軍の病院に連れて行かれ、しばらく入院していました。
 
激戦で荒廃した沖縄に帰る

 1946年(昭和21年)2月サイパン島を引き揚げ、父母の生れた沖縄に帰りました。島は2月なのに霰が降って寒く震えました。沖縄はサイパン島と同じで激戦地で砲弾により大地は削られ、赤土はむき出しになり砂煙が舞い、荒れ果てており、ここ沖縄で再び私たちの波乱の人生が始まろうとしていました。
 私は戦争体験を書くことに随分迷いがありました。
 生き残った7人は地獄を見てきました。思い出すことも語ることも酷で、お互い戦争を語ることはタブーで、妹とも語りあいました。妹は泣いて怒り、「今更なによ!」「出来ることなら忘却の彼方に捨ててしまいたい!」と。
 この手記は9歳の私の体験したことで、あれから68年が経過しましたが、片時も脳裏から離れることはありませんでした。戦争とは人間が人間で無くなり、極限状態の異常心理、殺し合いです。
 生き残った7人は歳の順に逝き、どうしても語らずにはいられなくなりました。この体験を後世に語り継ぐ責任があると強く感じ、勇気をだして書きました。9歳の体験を当時のままリアルに書くことは難しく、大人の感情のものとなりましたが、出来るだけ当時の記憶のままを書きました。
 
 
余生を平和と反戦を願う語り部として

 最後にこの手記を読まれた方々が平和を願い、生きる力になれればと念ずるものであります。
 あれから68年、生き残っているのは妹と私、2人だけになりました。
 私は今年76歳です、その間、幾度死線を越えたことか、私たち姉妹には、未だ戦争は終わっていません。私は横浜在住ですが、妹は沖縄に住んでおります。妹、宮城幸子とともに平和と反戦を願い、語り部として余生を送ろうと思っております。                    
企画/編集 岩田 忠利(当サイト主宰者)
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