玉砕の地サイパン島生まれの茂夫少年。戦前・戦中・戦後の激動のなか、多感な男の子は何を考え、どんな体験をしてきたのか・・・。本人が率直に描く体験レポート!

No.12  大磯暮らし。教員をめざして

 
 麦畑の学校 さよなら

 昭和21年4月。国民学校4年生になった。担任は戦地から復員したばかりの遠藤という男先生だった。規律に厳しい反面、伸びやかさが後退したように思えた。
 母が突然やってきた。転校の手続きのためだった。前もって聞いていなかったのでびっくりした。校庭で跳び箱を練習している最中だった。わたしは跳び箱というものをこの日初めて見た。助走から手を突き放して飛び越すまでの全ての要領がつかめず、たびたび先生の叱責を受けていたのだった。
 学校の周りの麦がだいぶ伸びて緑をいっそう濃くしていた。わたしは二宮先生にお礼とお別れの挨拶を失礼したまま、旭村国民学校を後にした。

 大磯へ引越し

  いよいよ引越しの日がきた。大磯に通ずる山の坂をリヤカーで登った。布団1枚、鍋と釜、サイパンから持ち帰った米兵用のアルミ製食器、麦2升、米1升、薪1束。これが家財道具の全てだった。


 坂を登りきると平坦な道に出た。そこで小休止。振り返って向こうの麓の方に目をやると麦畑や野菜畑、田植え前の田んぼが広がり藁葺き屋根の家々が点在していた。伯父の家は樹木に邪魔されて見えなかった。昨日まで通った麦畑の学校は丘の向こうのはずだった。

 大山は今日も見えた。はじめて見たときと変わって見えた。「山眠る」から「山笑う」の季節になったのだと言うことを後になって歳時記によって知った。父も母も生家の庭から四季折々の大山を見ていたに違いないと思った。
 いちばん寒い季節に憧れの日本にやってきたある日、「もうすぐ春が来るよ。春は暖かいよ」と言って母がわたしたちを励ましてくれたことがあった。それで「春待つ心」でじっと寒さに耐えることができたのだった。山間の細い道の両側には草や木が萌えていた。日差しも温かく感じられた。
 母が言ったように、春は確実にやってきたのだった。
 
 母が一本の草の若芽を摘んだ。
 「これはイタドリといってね、食べられるんだよ」
 休憩しながらイタドリの若芽を食べた。おいしかった。道の両側には段々畑が広がっていた。ミカン畑も見られた。平地が続き、リヤカーが軽くなった。

  父の無事帰還を祈る
 

 屋敷までもうわずかだという。偶然白岩神社前に出た。母は鳥居に向かって黙祷し手を合わせた。
  「母ちゃん、なんて拝んだの?」
  「お父さんが無事に帰ってくるように・・・って」
  2人も同じことを祈った。
  「父ちゃん、無事に帰って来てください・・・」

  四畳半の生活

 門から玄関までツツジとエニシダが長く続いていた。大きな屋敷だった。リヤカーを裏に停めると、庭に出てお屋敷の旦那様、 奥様にご挨拶をした。木造瓦屋根のりっぱな造りだった。
 わたしたちが住むことになる女中部屋は南西の隅の薄暗い四畳半だった。畳はなく、畳み風にデザインされた厚紙が敷かれていた。
 南村ダンダンでは栗原組の奥さんで通っていた母は、いまは子連れで住み込みの女中だった。屋敷が広いだけに家政全般を切り盛りするのは骨の折れることだったに違いない。
 雨露はしのげても、わずか90円のお手当では、食生活が苦しかった。 (90円は米1升の値段)配給米を麦に換えるなどやりくりを工夫した。その麦にしても、野菜、野の草のはいった水っぽい雑炊に浮いて見えているのだった。すいとんやサツマイモは当たり前だった。            
  

 大磯小学校4年に転校

 大磯小学校に転入学した。この年度まで国民学校の制度が続いたので正式な呼称は大磯町国民学校である。男女別学も変わらなかった。村の4年生から町の4年生になっただけだった。
 担任は野川先生だった。坊主頭で学究肌の若い先生だった。クラスには、山の手のお坊っちゃん、商店の息子、漁師の子など実に多彩でおもしろかった。それぞれ言葉遣いがちがうのだった。
 わたしは「君」「僕」といった純粋な標準語だった。いま中南米の日本人学校などでは意外なほど美しい日本語を話すそうだ。出身地が多岐にわたると純粋の日本語がいちばん便利なのだろうか。サイパンも同じ事情だったのでわたしはまだ標準語以外の言葉遣いに慣れなかった。
 新しい仲間たちと付き合いだすと「君」「僕」ではうまくないことがわかってきた。ときには、「てめっち」「おれっち」のほうが気脈を通じ合えたし、「おれ」「おめえ」がいいこともあった。わたしは、仲間の言葉をできるだけ覚えるようつとめた。
 帰宅して弟と仲間言葉を使っていると、母が聞きとがめて「それは汚いことばだよ」とたしなめたことがあった。それでも新しいことばが新鮮で、使ってみるのは楽しかった。世間が広くなったような気がした。

 授業になると、やはり生徒たちは自由にのびのびと意見を交換しあっていた。木村君は自分の考えを理路整然と述べた。高橋君の主張も説得力があった。わたしは感心しながら聞いていた。戦前・ 戦中と戦後、島と本土、農村と町等々環境の急激な変化に適応するために余分な神経を使うこともあった。身についた規範や行動パターンが新しい環境にも通用するのかどうか、いつも不安だった。
 
 卓袱台(ちゃぶだい)を買いに

 卓袱台(ちゃぶだい)(食事用の四脚の座卓)がないので代用品のお盆を使っていた。それでも不自由は感じなかった。母が八百屋さんからミカン箱をもらってきた。食器の数を少し増やすことができた。床に横になって勉強していたのでミカン箱には大助かりした。
 
 数年たったある日、本物の卓袱台を買うことになった。それだけの余裕ができたのだった。扱っている家具店は遠かった。駅前を過ぎ、役場までの坂を下った商店街を左に少し行ったところにあった。片道30分余はかかった。母が一日の仕事を終えてから夜道を行くのだが、わたしと利夫はスキップするほど気持ちが弾んでいた。
 いろいろある中で一番小さいのを選んだ。サイズは小さくても3人は大きな幸せを感じていた。兄弟が交代で持った。持っている間のうれしさは格別だった。
 何かいいことがあると、母は家族そろって喜べるような演出をした。
 
  
M君のこと

  転校してきたばかりのころ、M男がいきなり上履きで殴りかかってきたことがあった。なぜだか思い当たることはなかった。鐘が鳴ったのでほとんどの生徒は席に着いていた。担任はあいにく不在だった。たいして痛かったわけではなかったが、心に傷を負ってしまった。わたしは泣きべそをかいた。そのとき高木君がすくっと立ち上がった。級長だったのだと思う。 

 「Mをやれ!」

 高木君は正義感から怒りの形相だった。みながMを廊下に引きずり出した。倒れこんだ彼を蹴ったり殴ったりした。リンチの一歩手前だった。
 Mは動かなくなった。わたしは階段の近くでびっくりして見ていた。
 「そこまでしなくてもいい。もう勘弁してやってくれ」
 そう言うべきだった。内心の葛藤にもかかわらず、わたしはとうとう成り行きにまかせてしまった。ひとこと言いそびれてしまった。自分の意気地なさが情けなかった。
 その後はずっと、いじめられたり孤立したり疎外されたりすることはなかった。
 「芸は身を助ける」の言葉どおり、野球ができることで一目置かれたのだった。キャンプ(収容所)内で覚えた草野球が転校生の背中を押してくれたようだ。「六三制 野球ばかりがうまくなり」の時代も幸いした。

 (転入生にやさしかった高木君にもう一度会いたい)とずっと思い続けてきた。が、大磯中学校で見かけることはなく、それきりになってしまった。

 教育制度が改まる

 昭和22年(1947年)3月31日国民学校が廃止された。翌日の4月1日から「自由な民主的日本国民を育成することを目的」とした新しい制度に改まった。男女共学になった。
 5年5組の担任は北村先生だった。クラス替えはないまま、6年になったら斉藤先生に変わったのだった。

 身体検査で難聴を知る

 学校では、学年が改まると4月中旬ごろに身体検査が実施される。ところが、わたしの場合は編入学、転入学の時期の関係で身体検査を受ける機会が5年生になってしまった。(3・4年生時の通信簿の身体検査欄は空欄のままになっている)

 オージオメーターによる聴力検査の結果、軽度難聴と告げられた。高音の領域に問題があるという説明だった。
 いま6年5組の通知表を手元に保管しているので「身体の状況」欄を見ると、その事実を確認することができる。「学習上必要な事項と経過」欄には「発表型でなく、沈思黙考を好む云々(うんぬん)」の所見がある。まさに担任による観察の通りだったのである。指示されたり問われたりしたことを理解するまでに、聞こえた部分をつなげる余分な作業が入るため、それだけ反応が遅れるのであった。自分なりの考えがまとまったころには話題は次に移ってしまうのだ。やむを得ぬ「沈思黙考」だったのだ。
 
 いまタイムスリップして、6年生のときのある日の授業風景を、わたしにスポットをあてて再現してみよう。
 斉藤先生の熱っぽい授業が始まる。わたしは一言も聞き漏らすまいと先生の口元を凝視しつつ、耳にすべての神経を集中させる。机にかぶさって前のめりになっている。

 25分、30分と経過するうちに、すっかり疲れてしまって緊張の糸が切れてしまう。わたしは、窓越しに見えるサルスベリの赤い花やその向こうに動く白い雲をぼんやり眺める・・・。

 以上は一例だが、わたしは授業や日常会話で人知れず苦労した。細かいニュアンスばかりか、相手の言わんとすることそのものが正確に聞き取れないのである。
 
 難聴の唯ただ笑顔して秋思

  難聴の笑ってばかり水中花
 朝日歌壇の句だが、紙面で出会ったときは胸を突かれる思いがした。
 学校生活や職場で多くの友に出会ったわたしは、いつか聞こえるふりをするようになっていた。いい間合いでお付き合いを・・・と思うばかりに「唯ただ笑顔」で接していたのだった。
 「あなたの言うことはちゃんと聞こえていますよ」の笑顔の表出は常に後味の悪さを伴った。
 縁のあった友や同僚たちに今では済まなかったと思っている。

 数年前からデジタル補聴器を装用しているものの、加齢による要因も加わり相変わらず失礼することが多い。相手の方にこれを個性と理解していただき、わたしは私で真の笑顔でお付き合いできる自分でありたいと思う今日この頃である。

 初めて手にした雑誌

 ある日、学校から帰ったら卓袱台(ちゃぶだい)の上に真新しい雑誌がのっていた。下手投げの少年投手がいままさに一球を投じた瞬間の絵がまず目を引いた。なぜか同じ画面にハトと花が描かれていた。表紙の印象はいまも鮮やかである。月間雑誌『少年読売』だった。
 母子家庭の引揚者が自分の書物を手にするなど夢にも思ったことはなかった。胸が熱くなった。
 裏の炊事場で炊飯中の母の背中にむかって「母ちゃん、ありがとう」と言葉をかけた。振り返った笑顔の印象はいまでも脳裏から消えない。燃える麦ワラから上る竈(かまど)の煙がトタン屋根までとどいていた。

 読書を楽しむ機会がなかったわたしは、活字に飢えていた。手にすることができる本なら何でもよかった。戦時中の本まで読んだ。その後、民主主義啓発のため子ども向けに書かれた評論家坂西志保著『富雄のアメリカ旅行』を直接ご本人から頂戴した。『少年読売』とあわせて2冊・・・。借りる一方のわたしだったが、ささやかながら貸し借りをするようになった。

 父の幻像

 しばらく妙な体験をした。向こうからくる人が、ときに父の姿に見えてしまうのだ。この現象を“幻視”と表現してよいのかどうか分からない。とにかく平常心を失ってしまうのだった。赤面したまま相手の顔がはっきり弁別できるまで、ドキドキしながら見守った。息苦しくなるほどだった。別人と分かったときの失望は大きかった。
 
 童謡「あした」を聴くと全身が熱くなった。こんな歌詞だった。
 ♪ お母さま 泣かずにねんね いたしましょ  赤いお船で
 父様の かえるあしたを たのしみに
 
 なんだか自分の気持ちを歌ってくれているような気がした。
 童謡「あした」は学芸会で他のクラスの三浦さんという女の子が独唱したのだった。聴いたときのわたしは、例によって感極まってしまっていた。

 父還(かえ)らず

 昭和26年(1951年)9月、対日講和条約が締結された。新制中学校の3年生になっていた。
 わたしたちは、日本独立のときを父が還(かえ)る日と決めていたが、とうとう実現することはなかった。もはや死亡したものと観念するしかなかった。
 母は、思いとは別に、昭和21年(1946年)12月13日修蔵、輝夫、勝の死亡届を役所に提出した。父の死亡日は昭和19年(1944年)6月26日になった。最後に別れた日だった。
 あの日、わたしは洞窟の奥にいて「パン」「パン」という2発の銃声を聞いた。遠く軽<乾いた音だった。あれが、非戦闘員である父と伯父を撃った銃声だったのだろうか。何気なく聞いた2発の銃声がとたんに重い意味を持ち始めた。 
 
 講和条約締結を待たずに死亡届を提出したのはなぜだろうか。推測だが、生活保護と遺族年金の申請のためではなかったかと思う。民生委員からの助言があったようだ。
 修蔵、輝夫、勝の正式な法要を営んだのは講和条約のずっと後の50年忌だった。
 生活保護も遺族年金もありがたかった。テニスコートの整備や草取りなどによる兄弟の収入は小遣いくらいにはなった。どうやら暮らしていけた。貧しいのは自分たちだけではなかった。多<の級友たちが程度の差こそあれ、敗戦の影響を受けていた。それでもみな明るく健気だった。彼らとの学校生活はいつも楽しかった。

 伯父の言葉に母もわたしも発奮、働いた

 義務教育の課程を終えようとしていた。進路の問題が深刻だった。諸般の事情を考えれば教員になる資格を得るための進学を断念し、とりあえず就職するほかはないと思っていた。が、母はちがった。
 「茂夫が中学校を卒業したら農業の手伝いをさせるんだな」
 この伯父の言葉を忘れたことはなかった。発奮をバネとエネルギーにして苦労に耐えてきたのだった。
 「茂夫は高校に行きなさい! 学費はなんとかなるから・・・」
 
 わたしは、昭和27年(1952年)4月、平塚市の県立平塚江南高等学校に進学した。
 生活保護を申請したが、法の壁にはばまれて許可されなかった。「義務教育まで」ということだった。育英資金は受けることはできた。

 学費調達のために家族の労働力のすべてを傾注した。まず働き口をさがした。元大蔵大臣井上準之助氏の別荘で、当時はご子息井上五郎氏のお屋敷だった敷地内外の草取りやテニスコートの整備をさせていただけるようになった。大変なご好意だった。
 城山三郎著『男の本懐(ほんかい)』で当お屋敷は「駅から1.5キロほど。北に小山を配し、隣には白岩神社の森。南は畑がひろがる先に、東海道線が走り、さらに海浜の松林が見える明るい土地である」と描写している。
 近隣のいくつかのお屋敷でも草取りをさせてもらった。草取りは、幼少のころ父に基礎をしこまれ、自信があった。
 高校3年の夏休みに、鶴見の大黒町まで通ってアルバイトをした。糖蜜を輸入する会社だった。長靴を履いて糖蜜のタンクに入り現場の従業員に混じって作業を共にしたり、引込み線の貨車を押したりした。蟻に食われながら草取りもした。受験担当の教師に叱られた。
 母は一日の仕事を終えると遅くまで賃仕事のセーターを編んでいた。深夜に目覚めると、まだ灯りがついていた。期限のある作業はきつかった。 ある夜、精魂つきて、便所で倒れた。

 念願の教員免許状を取得

 昭和30年(1955年)、横浜国立大学に合格した。教員養成の新制大学だった。幸い、日本育英会の奨学金が受けられた。教員になれば返済は免除されるのだった。
 評論家の坂西志保先生が保証人だった。学費の不足はアルバイトだった。大学の担当者からいただいた建設省関係の仕事が直接くるようになった。家庭教師もやった。
 その間、住所が目まぐるしく変わった。東京、大磯、また東京、横浜といった具合だった。今では小型トラックが必要だった。
 「いつになったら自分の家に住める日がくるのだろうか」
思うことはいつも同じだった。
 昭和34年(1959年)3月、とうとう教員免許状を取得することができた。母の健康と引き換えに得た資格だった。このとき彼女は、逗子のサナトリウムにいたのだった。

 “七面鳥”先生、初の赴任

 昭和34年(1959年)4月、教職員としてスタートラインに立っ た。母が喜んでくれた。


 高田天満宮の階段を73段登り、サクラのトンネルをくぐると校門だった。横浜の最北端の横浜市立高田小学校だ。横浜市としてはめずらしい1学年1学級の小さな学校だった。5年生の担任だった。
 
 木造校舎は温もりが感じられた。廊下の窓から外に目をやると、西の方は一面の麦畑だった。遠くに春の富士が霞んで見えた。再び目を戻すと、手前の麦の列を左から右へゆっくり観ていった。一株一株が掛け替えのない存在として今を生き、精一杯背伸びをしているのだった。それぞれが実りに向かって命を育んでいる姿は健気だった。春の陽光を受け、大地から養分を、天から水を充分に吸収しながら・・・。
 
 発芽したばかりの勝、まだ充分に成長しきれていなかった輝夫は、養分と水の不足から命を縮めて逝った。

 教室に入ると麦の列を観たように、縁があって教え子となった子どもたちとゆっくり目を合わせていった。みな元気そうだった。彼らには平和なこの日本の将来が託されているのだ。
 「この子どもたちの命をしっかり守っていこう」
 そう心に誓ったのだった。

 農村地帯の素朴な子どもたちは、みなかわいかった。早速「七面鳥先生」の愛称をいただいた。みんなの前で赤くなったり青くなったりしたからだった。背ばり高くて痩せた七面鳥だった。朝礼台の上で「アノー、アノー」を36回連発してしまった。子供たちがちゃんと数えていたのだった。
 「七面鳥のままでは子どもたちの命を守れないぞ。しっかりしろよ」
 純朴で屈託のない彼らに接しながら校舎の向こうの麦のように育つことが許されなかった戦争の時代を、複雑な気持ちで想起していた。
多年草「イタドリ」の花

疼(いた)みを取り去る効果があるので、疼取(いたどり)がその名の由来。新芽の軸は中が空、折るとポンと音がするので、別名「スカンポ」とも呼ぶ




まだ30代の母と家族3人、大磯で
























大磯町国民学校4年生当時の通知表。転入のときには身体検査が終わっていたので空欄になっている





















 http://homepage2.nifty.com/higeneko/t-dai.htm
 上記ホームページから写真と以下の文を転載させていただきました
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 どう言うわけだか、急にちゃぶ台が作りたくなってしまいまして、急きょ製作に取りかかりました。
 今回の材料はすべてダイソーで揃えました。だもんで材料費は、総額300円。製作時間は3時間ほどで色塗りも含めると、半日で充分出来あがりました。

 丸型ターンテーブル。角材2本セット。木材用塗料。これらをダイソーで購入したのであります。

 ジャジャ―ン、こんな風になるのであります。




















    サンフランシスコ平和条約
 昭和26年(1951年)9月8日アメリカ合衆国サンフランシスコで48カ国が集まり平和会議が開かれ、平和条約を結んだ。著名するのは吉田茂首相



























 著者が横浜国大入学の年、昭和30年(1955年)の横浜駅西口と東横線ホーム。上に停車しているのは東横線の電車。
 当時の西口は「裏口」といわれ人通りが少ない寂れた一角だった。「夜間は追いはぎが出るから・・・」と女性の一人歩きを親から注意されていた場所だった

                        「とうよこ沿線」第29号から
 
 2008年統計の「1日平均の駅別乗降客数ランキング」では、1位新宿駅360万7千人、2位池袋駅、3位大阪駅・梅田駅、4位渋谷駅、5位横浜駅の210万6千人・・・。今やわが国を代表する人間集積の繁華街の一つに















































































































































横浜国大4年当時の著者(中央)。間もなく教員免許状取得だ!










横浜市立東小学校で教育実習を経験した。三ッ池公園への遠足に付き添ったのも貴重な体験となった











新米教師として昭和34年最初に赴任した、横浜市立高田小学校。1学年1学級の小規模校だった。当時はまだこのような木造校舎は多かった
最初に赴任した高田小学校の教え子たち。卒業間近のある日、天満宮の石段の前に勢ぞろいした。6年間同じクラスで苦楽をともにしてきた














新米教師の授業風景。クラスの人数は50人を超えていた。みんな明るくていい仲間たちだった
企画/編集 岩田 忠利(当サイト主宰者)
イラスト 阿部 紀子(イラストレーター。新宿区市谷)
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