玉砕の地サイパン島生まれの茂夫少年。戦前・戦中・戦後の激動のなか、多感な男の子は何を考え、どんな体験をしてきたのか・・・。本人が率直に描く体験レポート!

No.11  伯父の家から通学

 
 鴨居の引き揚げ寮にて

 
 
 桟橋からトラックに乗せられた。車上から次々に現れ消えていく町のたたずまいに落ち着きのない好奇の目を向けているわたしたちだった。
 引き揚げ援護局鴨居寮に着いた。(※鴨居は浦賀の近くの地名である)元兵舎だったところで木造2階建てだった。2階の部屋が割り当てられた。畳がある部屋は南村の生家以来だった。早速仰向けに身を横たえ足腰を伸ばした。いい気分だった。
 
 前もって食券が配られていた。階段を下りたところが食堂だった。大勢の引き揚げ者たちでごった返していた。寮での最初の献立は、麦ご飯と大根の葉のおかずだった。抑留から解かれて自由の身となった親子3人がそろって食事らしい食事を済ました。平和が戻った父祖の地にあって、戦禍のなか飢餓に苦しんだ記憶はもう遠い過去のことのように思えた。
 
 9日間の船旅で汗くさく汚れた体を洗い流すことができた。共同浴場が用意されていたのだった。混み合う浴室内は湯けむりでお互いの顔が見えないほどだった。ここの風呂もわたしには熱すぎた。タンクの天水を頭からかぶって育ったわたしだった。熱い湯は生理になじまず、体を沈めることが苦痛であり、不快でもあった。
     
  
夏みかんとチョコレートの物々交換

 寮の近くに住む斉藤ケイジ君といつか言葉を交わすようになった。学校から帰るのを待っていて彼の家に遊びに行った。冬枯れの庭に夏みかんがたわわに実っていた。陽を受けて黄金に輝く大きな実がなんとも魅惑的に見えた。
 わたしはチョコレートと物々交換するようになった。この季節の夏みかんは酸味が強すぎて食用に向かないと言われるが、わたしにはそれで良かった。南の島になかった夏みかんをわたしは高く評価し過ぎていたのだった。母はわたしの物々交換を好ましくないこととして苦にしていた。
 ある日、夏みかんを手に寮に戻ると伯父と母が向かい合っていた。父かと錯覚し、取り乱してしまった。胸のつぶれる思いだった。それほど父によく似ていた。そうでないと知ったときの失望は大きかった。
 母は寮に入ってから、先々の身の振り方にずっと悩んでいた。同じ引き揚げ者でも青木家・杉山家は帰る家があった。が、滑走路の下になったのが栗原家の唯一の家だったから、内地では身を寄せる所がなかった。この日の伯父の訪問はその解決策を話し合うためだった。母の生家、大根村(現秦野市)の青木家は同じ引き揚げ者だから当初から論外だった。
 
 伯父の献身

 引き揚げ寮で12〜13日間を過ごした。
 伯父が迎えにやって来た。斉藤君に別れを告げることなく寮を出た。
 京浜急行、横須賀線と乗り継ぎ、東海道線で大磯に向かった。どの電車も超満員だった。荷物が少ないのは幸いした。日本の電車はサトウキビを運んだあの軽便鉄道とは比較にならないほど立派だった。ただ、窓ガラスがなく車内を寒い風が吹き抜けていた。駅で停車するたびに窓から出入りする乗客があった。これが敗戦国の姿だった。乗客はみな一様に不機嫌そうに沈黙し、車内に暗い空気が流れていた。
 車内に入れなかった伯父はリュックを背負った体を振り落とされまいと、必死にデッキにしがみついていた。わたしの脳裏に刻印されたこの日の伯父の献身を終生忘れることがあってはならないだろう。

 父の生家・伯父の家

 父の生家は神奈川県中郡旭村(現平塚市)万田にあった。通称「池の上」と呼ばれていた。底から湧き水が絶えたことがなく澄んだ水面にヤブツバキの花が美しい影を落としていた。池から流れ出た小さな流れはセリや水草を揺らしながら伯父の家や隣家の脇を通って農業用水へと続いていた。川がなく水不足に悩んだサイパンと大違いだった。
 池を右に見ながらすこし登ると左手の庭の奥に藁葺(わらぶ)き屋根の母屋があった。庭は広かった。サツマイモの苗床になったり、刈り取られたイネを脱穀したりと四季の農作業に合わせて多目的に使われていた。
 小さな流れに沿った土手に梅の樹が2本あった。花が咲くとよい香りがした。寒中に凜(りん)と咲くウメ、スイセン、ツバキなど日本の花を美しいと思った。いまでも好きである。

 囲炉裏(いろり)を囲んで食事をいただいた。食べたい盛りのわたしや利夫が2杯目のご飯茶碗を差し出すと、母が目で制した。せんべい布団に親子3人身を寄せあって寝た。慣れない冬の夜を過ごすには、やはり寒かった。よく眠れなかった。それでもLSTの鉄板よりはずっとよく、不満はなかった。
 父の実家とはいえ、修蔵のいない家族にとっては、なにかと遠慮することは多かった。
 
 村の学校に編入学


 旭村小学校に通うことになった。まわりを麦畑に囲まれた木造の小さな学校だった。(アスリート国民学校よりずっと立派だったのだが・・・)手元にある「国民学校手帳」(通信簿)で出席日数欄をみると2月1日あたりの編入学だったと思われる。
 学齢では4年生と2年生に達していたのだが、学習の空白が配慮されて1学年遅らせる措置がなされた。戦後の混乱期には、こんなケースもあったのだった。男女共学はまだ先のことだった。 
 担任は二見先生だった。清楚な感じの若く美しい女教師だった。 学用品は足りないものが多かった。習字の道具やソロバンは、先生がご自分のものを貸してくださった。キャンプの1年半を思えば教科書とノート、鉛筆があるだけで十分満足だった。

  
久しぶりの学習

  習字の時間に久しぶりに筆をもった。文字を書く喜びが湧いた。ランプの下で父に手を執られて書いた「一」の字が思い出された。墨の香りが懐かしく、それは父の匂いでもあった。
 図工の時間にネギの絵を描いた。みんなの絵はとにかく色があざやかだった。いいクレヨンを使っていたのだった。わたしはクレシンというものを使っていた。色鉛筆よりもさらに色ののりが悪いのだった。それでも先生はわたしのネギの絵をほめてくれた。ネギは伯父が持たせてくれたものだった。

 国民学校の制度はまだ存続し、国定教科書もそのまま使われた。先生から教材の全文または一部に墨を塗るよう指示されたことがあった。ちょっととまどった。教科書は天皇陛下から賜ったものであり、大切に扱うよう徹底して指導されていたからだった。軍事主義的教材、海外侵略教材等はみな墨が塗られた。国家神道、神社神道も否定された。
 
 授業風景が変わった

 制度はまだ国民学校であっても授業風景は一変していた。黒板の前の教壇がなくなっていた。正しい姿勢を表す掛け図も見られなかった。児童たちは活発に発言しあっていた。加藤君はよく通る声で活発に考えを述べた。体が大きくぽっちゃりした感じの青柳君は指名されると的確に反応した。熊沢君はバランスのとれた優等生で、体育は万能だった。島の国民学校で先生の話に行儀よく耳を傾けているだけだったわたしには驚きだった。戦争が終わって、教室の中にも新しい風が吹いているのだった。

 休み時間になるとみな校庭に飛び出した。ストーブのない教室にいるより良かったからだ。わたしは、仲間の輪の中に進んで入っていった。遊びは遊びながらだんだん覚えていくものだ・・・と思えるだけの経験をすでに持ち合わせていたのだった。
 校庭の一角に集まると、5寸釘(くぎ)を地面に突き立てて遊ぶのである。突き立てながら自分のクモの巣を大きく広げるのである。一方相手のクモの巣の糸上に釘を突き立て、その先の糸を切り落とすこともできた。相手のクモの巣を小さくする戦略である。
 大山颪(おろし)の寒風の中、子どもたちの額に汗が光るころになると、無情の鐘がなった。
 鬼ごっこをして遊んでいたある日の昼休みだった。上級の子がわたしの防寒帽を奪って消えた。学用品で不自由をしていたわたしだったが、母が引き揚げ船で作った防寒帽は入り乱れた校庭の子どもたちから見て、上等の品だったに違いなかった。心づくしの防寒帽を失った母の悲しみを思うと、切なくてやりきれなかった。

 寒い盛りだった。田に厚い氷が張った

 1年生の読本に、こんな文章があった。
 「ケサ、ハジメテ 池ノ 水ガ コホリマシタ。・・・・・・」
 「氷ガ ハッテ、サカナタチハ サムイデショウネ。」
 雪も降った。
 「雪ヤ コンコ、 アラレヤ コンコ、・・・雪ハ、アトカラ アトカラ フッテ 來(来)マス」
 わたしは1年生の時、この教材を繰り返し音読し暗記した。3年生の冬になってやっと実感をもって理解しえたのだった。
 素足に下駄履きで通学した。村の子供たちもほとんどが下駄履きだった。学年によらず近隣から田んぼの向こうの低い丘に集まってきた。わたしたちは田んぼを斜めに横切って氷の上を歩いた。従兄弟のマーちゃんや文雄ちゃん、1年生の利夫が一緒だった。マーちゃんは登校グループのリーダーだった。
 雨の日は欠席した。傘がなかったのである。蛇の目傘の列が丘を出発し、だんだん学校に向かって小さくなっていくのを切ない気持ちで見送っていた。


 Oh,Mistake! おしっこが・・・

 授業の始めと終わりの合図は鐘だった。その鐘にまつわる失敗談がある。
 熱帯生まれのわたしにとって最大の悩みは「おしっこ」だった。伯父の家の布団をよく汚した。なにかと遠慮する立場にある母としてはつらいことに違いなかった。とにかく当時のわたしは小便臭い少年だった。熱帯になじんだ生理が、気候の激変に適応できず戸惑っているのだった。

 ある晴れた日だった。 3時間目の授業が間もなく終わろうとしていた。授業の途中から尿意を催していたわたしは、鐘が鳴るのを待っていた。戦後の教室はかなり自由な空気だったが、編入して日の浅いわたしにはまだ遠慮があった。教室を出たいという意思表示をするだけの勇気に欠けていた。先生に断わって便所に行こうか。いや、もう少しで休み時間だ。我慢しよう。あと5秒、3秒・・・。必死で机にしがみついていた。
 「もう駄目か」 
 そのとき鐘が鳴った。それがいけなかった。ホッとした途端に緊張の糸が切れてしまったのだった。
 「とうとう漏らしてしまった!」
 
 なま温かい液体が不快な感触を残しながら次第にかかとの方へ移っていった。われに返ったら床を濡らし、それが次第に広がりつつあった。
 学友たちは、わたしを遠巻きにして、ワイワイ騒ぎ始めた。先生はとっさに事情を察するや、みんなに残らず校庭に出るよう指示した。あいかわらずその場に呆然と立ちつくすわたしを、教室の隅に移すと、何事もなかったかのようにきれいに後始末をしてくれたのだった。保健室から調達してくれた新しいパンツに替えたら少しホッとした。
 まだ若く経験の浅い教師だったが、すぐれた感性と感度の持ち主だった。
 「きょうは、もうお帰りなさいね」
 わたしは、麦畑の道を逃げるように家の方に向かった。背中にみんなの視線を焼けるように感じながら・・・・。遠くまで来ると、たまらず学校の方を振り返った。麦畑のむこうから始業開始の鐘が小さく聞こえた。教室に戻ったばかりの級友たちの豆粒ほどの黒い頭が窓いっぱいに鈴なりになって見えていた。
 
 通学路をそれて近くの丘の上に登った。学校からも伯父の家からも安心できるほどの距離だった。途中だれにも会わずにすんだ。この時期にしては温かい日ざしを全身に浴びながら、ほっと溜め息をついた。

 母への秘密

 「さて、これから先どうしたものだろうか」
 不安になってきた。母から不審がられぬよう、弁当だけは食べてしまわねばならなかった。
 そのほかにも、考えておかねばならないことがいっぱいあった。明日教室に入るときのことも想像するだけで憂鬱だった。いい知恵が浮かばないまま、下校になる時刻までそこで過ごした。濡れたズボンは何事もなかったかのようにきれいに乾いた。臭(にお)いの方はいっそう強くなったようだった。
 「ただいま」
 夕方畑から帰った母にはこのことを隠し通した。とうとう秘密をもってしまった。母は黙っていたが、いつもより余計に小便臭い自分がやりきれなかった。母は気づいたかもしれなかった。
 
 伯父の言葉「茂夫は農業の手伝いを」

 母は、伯父夫婦の農作業を手伝っていた。慣れないことが多く、伯父には気にいらないことが多かったらしい。サトウキビの栽培など熱帯の農作業と内地のそれはまるでちがった。あまり手をかけなくても作物が育つ南の島と違って、ここでは作物に対する細やかな世話が必要だった。
 そんなこんなで憂鬱な毎日であったらしい。「らしい」というのは、母の手記によって初めて知ったからである。
 
 伯父には4人の子どもがあった。長女は間もなく嫁ぐはずだった。長男のマーちゃんは夜遅くまで高校受験の準備に余念がなかった。太平洋戦争で活躍したゼロ戦やグラマンの模型を器用につくり、学習机に飾っていた。時にはたらい船に乗って池を漕ぎ回ったり竹製の弓でニワトリを追ったりで、文武両道といったところだった。次男はいつもニコニコしていてひょうきん者。次女は学芸会の主役で優等生だった。
 あるとき母は、伯父からこんなことを言われた。
  「うちの子は高校へやるつもりだが、茂夫が中学校を卒業したら農業の手伝いをさせるんだな」
 母はショックだった。

 
「茂夫は大きくなったら学校の先生に・・・」

 母は71歳でその生涯を終えるまで常に敬慕してやまなかった尋常高等小学校時代の恩師・宇佐見先生の影響が大きかったようだ。( 彼は『赤い鳥』や『少女倶楽部』を講読していたが、子どもたちにも貸し与えていた。農村の僻地に学ぶ教え子たちに時代の空気を吸わせ、児童文化を享受させていたのだった)
 わたしを宇佐見先生のような教師にすることが昔からの夢だった。父の希望もあった。「それには資格が必要だ。何とかして上の学校に進ませねば・・・」だが、家のない母子家庭で高校に進学させる余裕など、どこにあろうか。
 後のことになるが、昭和25年(1950)、わたしは家督相続を受けた。新制中学校1年生のときだった。相続税が78円だったという。一家の経済力はこの程度だったのである。伯父は至極あたりまえの判断を述べたのだった。誰も恨む気持ちにはなれなかった。母はただ彼の言葉をバネに「なにくそ!」と、がんばる決心をしたのだった。

 「大磯の大きなお屋敷で女中さん(今は使わないことばだが、当時の話としてそのまま使った)を探している。子連れでもよいそうだ。どうかね」という話があった。
 母は同じ苦労をするなら他人のほうが良いとの判断から、迷うことなく大磯に行くことを決心したのだった。
 伯父の家(現平塚市)で従兄弟たちと
サツマイモの苗床の前で。後列真ん中が著者、前列右が弟・利夫くん























      スシ詰め電車
 モノ不足は深刻。電車のダイヤも車両も極端に少ない。なのに乗客は多い。
 デッキにぶら下がる人、窓から出入りする人あり。生きるため非合法のヤミ物資を求め、都会から農村へ食糧の買い出しに行く人がホームにあふれた

                 『とうよこ沿線』26号から









































































































































    急造のバラック小屋
焼け跡に焼けトタンや焼け焦げた材木で小屋を建て生活する家庭も多かった

                 『とうよこ沿線』30号から












     「外食券食堂」
 配給された外食券がなければ外食できない時代。左の長い紙に「東京都指定引揚者無料給食食堂」と書いてある

                 『とうよこ沿線』43号から









     墨で塗られた教科書
終戦直後の教科書は、戦時中の教科書(右)を使っていた。軍国主義を鼓舞する表現は、左の教科書のように墨で塗りつぶさなければならなかった

                  『とうよこ沿線』30号から









     「引揚者帰国歓迎会」
家々に肉親や親戚一家が引き揚げてきて町内の新住民となった。町内会主催の歓迎会が開かれた
       『とうよこ沿線』30号から
   昭和21年の自由が丘北口駅前
長く苦しい戦争が終わり、駅前に露天の店が並び、街に会話と笑いが戻ってきた
          
『とうよこ沿線』26号から




  昭和21年9月戦後復活した祭り
 鎮守の森、神社の祭りの復活で急造のヨシズ張りの舞台を綱島西口駅前につくった。演芸会を開き、街は戦後初めて盛り上がった

                 『とうよこ沿線』46号から
企画/編集 岩田 忠利(当サイト主宰者)
イラスト 阿部 紀子(イラストレーター。新宿区市谷)
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