島民の居住するエリアにはパンの木やマンゴウの大樹が家庭の庭、道路脇の至る所で見られ群生していました。15メートル以上に成長し、30メートル以上の大木もあり、ススペ収容所のシンボルツリーでした。写真の丸いのがパンの実です。子供の頭位の大きさがあります。
太陽の恵みとして南太平洋の島々で主食とされていましたので『パンの木』と呼ばれています。
英語では「 Breadfruit 」, breadはパン、fruitは果物の意味です。パンの実は蒸し焼きにするとサツマイモとパンの中間の味がし、美味かった。ほったらかしの木が毎日食料を提供してくれる有り難い木です
(文・写真 栗原)
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2年半ほど前のことです。パソコン教室を主宰する私は、初受講の栗原茂夫さんが書かれた1通のメモを栗原さんの紹介者・故池田はるみさん(教室スタッフ)から手渡されました。メモの見出しは「艦砲射撃が炸裂、難聴に」でした。教室の講師の皆さんにご自分が難聴であることを事前に知らせ、誤解のないようにとの栗原さんの配慮だったようです。
その経緯がこう綴られています。「出生地がサイパン島のわたしは、国民学校3年のとき戦禍に見舞われた。一家6人は夜陰にまぎれジャングルをさまよった。照明弾が揚がると、すかさず容赦のない艦砲射撃が浴びせられた。突然、至近距離で砲弾が炸裂・・・。奇跡的に生還できたが、このとき聴神経に障害を受けたらしい。(専門家の診断による)」。
「サイパン島」といえば、あの太平洋戦争の玉砕の地。そこが生まれ故郷である栗原さん、その少年時代がいかに壮絶であったかは上記数行が物語っています。
先の大戦の戦没者は310万人、その中の240万人が外地で亡くなったそうです。私も、兄がボルネオ島沖で、一人の叔父がシンガポール沖で、もう一人の叔父は今の中国で、それぞれ若くして戦死しています。栗原さんの悲惨な体験は他人ごとでは済まされません。機会があったら、戦時下の体験談を栗原さんから直接うかがいたい、そんな望みを抱いていました。
今年(2011年)3月から私の講座に「アルバム編集講座」を企画、スタートさせました。受講者の半生をパソコンで編集しCDにして子孫に残すというもので、これに栗原さんも参加し、来し方をまとめることになりました。
その第1日目の冒頭、相談を受けました。「戦時中、サイパン島にいた私は、写真はたった1枚、これしかありません」と言いながら、A4用紙にびっしりしたためた文書を出されました。その数33枚・・・。それを一気に読み終え、少年の眼を通して見た戦争の残酷、非情、悲惨な体験を克明に綴った記事に私は痛く感動、しばらく放心状態でした。
この記事こそホームページで公開し、戦争を知らない多くの人々と共有すべきと判断しました。この連載は、戦前の平和な常夏の島サイパン時代の話から日ごとに戦乱に巻き込まれていく話、戦禍の中ジャングルを家族で逃げさ迷う話へと展開します。
戦後66年、戦争を知る世代はごく少数派になりました。戦争体験は、今や風化しつつあります。平和の大切さを次世代に語り継ぐ一助になれば幸いです。
沿線誌『とうよこ沿線』編集発行人/えんせんシニアネット会長 岩田忠利 |