大正14年(1925)NHKラジオ放送開始当時、番組に登場した子供たち



大正14年、NHKのラジオ番組に楽器演奏で出演した都田尋常小学校第2分教場(現折本小学校)の3〜4年生
 提供:雲井耀−さん(折本町)

 
 
NHKが、わが国初のラジオ放送を開始したのは大正14年、今から88年前のことです。
 この年に都田尋常小学校第2分教場(現折本小)の児童は、雲井麟静(りんじょう)先生(折本町・真照寺住職)に引率されて東京・愛宕山の東京放送局でラジオ番組に出演しました。その雲井麟静先生の教え子で出演者のお二人、加藤実・花子夫妻(折本町生まれの同級生で、ともに大正3年生まれの88歳<平成13年時>)が当時の体験を昨日のことのように話されました。

 
出演者の加藤実・花子夫妻の話

 当時の都田尋常小学校第2分教場は4年生までで、5年生からは池辺の本校に通学しました。分教場のハーモニカ楽団は3〜4年生。
 その子供が小机駅から汽車に乗るなんて初めて、ましてや東京まで行くなんて夢のようでした。NHKの放送局は関東大震災に遭って何も無いというので、わしら子供たちが譜面台やハーモニカはもちろん、ほかの楽器も持って行ったのです。放送局に着いてから何時間か待ち、ようやく始まった放送時間が夜8時から‥…・。その日は朝も早かったし、夜7時といえば子供の寝る時間だったし、眠くて眠くてねえ!

 その日に備えて毎日放課後、麟静先生のお寺の本堂で何曲も稽古して覚えて行ったのに、「べ−トーベン」と「春雨」の2曲だけで終わっちゃった。帰りは小机駅までどう帰ったのかも知らないほど、みんなよく眠ったようだね。でも、NHKのラジオ放送開始の年に出演するなんて一生の思い出ですよ。それは麟静先生のお陰だと今も大変感謝しています。
 麟静先生はご自分のお小遣いをはたいてはラッパ、ハーモニカ、ヴァイオリンなど何でも楽器を買ってはわしら児童に与え、それを上手に使えるまで懇切丁寧に教えてくださったのです。



 昭和7年4月、都田尋常小学校第2分教場(現折本小)

 この校舎は現在の折本町西原公園の所にありました。
 提供:雲井耀−さん(折本町)



      写真左の現在の折本小学校

 大熊川を背にし周囲は田畑が広がる、のどかな田園地帯です。
 2018.8.18 撮影:岩田忠利




3人の遺産、堂ケ坂切り通し



大正13年、堂ケ坂切り通しに村人の募金で擬宝珠(ぎぼし)付きの「欄干橋」完成

 7年間を要して丘を切り崩し、用水堀を造り、折本耕地40町歩(4万u)の水田に水を引けるようになりました。
  提供:雲井耀−さん(折本町)

 写真左の堂ケ坂切り通しに隠れた3人の功績

 
写真左の「堂ケ坂切り通し」には先人の筆舌に尽くし難い苦難が隠されています。
 写真手前に大熊川が流れ、神宮山という丘の向こう側に折本町の水田が広がっています。しかし潅漑用水が不足、稲作は毎年不作でした。そこでこの丘を切り崩して用水堀を造り、村人の貧困を救おうとした者がいました。
 了信という旅僧と村役人の高次郎、2人の連日の苦労を見た旅僧の娘・つがもこれを手伝います。来る日も来る日も泥まみれになってツルハシで丘の土を削り、その土をモッコで担ぐ3人の姿は村人の目には“狂人”としか映らなかったのです。が、やがて工事が進むにつれ村人はその見方を変え、徐々に協力、ついに全村民が参加し工事は順調でした。

 次々襲う惨事。ついに40町歩に水を引く

 
そんな時、不幸にも高い土壁が突然崩れ、了信と高次郎の二人は生き埋め、圧死という悲惨な事故に遭うのです。
 その遺志を受け継ぎ、村人の先頭に立って土石と格闘したのは、旅僧の娘・つがと遺族たち。その後、工事が難所にさしかかり、再び8人の犠牲者を出す惨事に
……。村人はこの惨禍にもひるまず掘り続け、とうとう折本耕地40町歩に水を注ぐことに成功したのです。
 この工期は、戸倉英太郎著『都筑の丘に拾ふ』という本には天文元年(1532)から同8年(1539)までの7年間を要したと記されています。


 昭和9年、村人の協力で灌漑用水堀を暗渠排水にして地上を道路に
 
 左の人たちは欄干橋の下で完成を祝う折本の皆さん。
 提供:加藤恒雄さん(折本町)


           写真左の現在地

 後方の橋はむかし「欄干橋」でしたが、今は真照寺の近くにあり「真照寺橋」と呼んでいます。
 2018.8.18 撮影:岩田忠利




       
村人の暮らし



             昭和11年、「ごぼう屋の堰」が完成

 写真上の「欄干橋」手前の濯漑用水に大熊川から分水するコンクリートの堰が現西原橋の所に完成。橋の上に並ぶ人、左から人目が屋号「川l根」の先々代、加藤^之助さん
 この堰は屋号「ごぼう屋」の北村建−さんの家の前にあることから、地元では
「ごぼう屋の堰」と呼んでいました。    
 
  提供:加藤恒雄さん(折本町)



    大正10年、嫁の里帰り

 服装や髪型が大正時代の映画を彷彿させます。屋号川根の加藤恒雄さんの祖母・ミトさん(後列左端)は第一子が生まれ、祖父・加藤^之助さん(前列の男性)と一緒に勝田町の実家(現関 恒三郎家)に里帰りしたときです。           
 提供:加藤恒雄さん(折本町)

      


  昭和12年、内藤昭男家のアイリスの球根出荷準備

 折本地区は大正期以降、東京・横浜向けの野菜の栽培が盛んになり、特に漬け菜と各種の苗、イチゴの生産が有名でした。
 提供:雲井耀−さん(折本町)





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NO.20 折本町の人とその営み

校正:石川佐智子 / 編集支援:阿部匡宏 / 古写真収集・文・編集:岩田忠利

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