校正:石川佐智子 / 編集支援:阿部匡宏 / 古写真収集・文・編集:岩田忠利

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茅ヶ崎 風景今昔U



               昭和30年の谷戸池

 
中央の土手の中腹の細い道は中原街道です。勝田地区の地形は早淵川よりも高いため水田に水を引けず、谷戸池・丸沢池・権田池という3つの溜池の水を灌漑用としていました。
 この谷戸池は港北ニュータウンの造成で埋め立てられ、現在の交差点「茅ヶ崎中学入り口」付近一帯となっています。
 提供:関 岳夫さん(勝田町)


写真左の現在地、交差点「茅ヶ崎中学入口」

 
後方の道路は新羽〜荏田線、左右の道は中原街道で右に勝田橋方面。右手の高層マンションは港北ニュータウン・イオの7番館です。
 2013.8.9 
撮影:石川佐智子さん(日吉)












                昭和31年の大塚原

 
港北ニュータウンの幹線道路、新横浜・元石川線にバス停「大塚原」があります。大塚原の地名は古く、茅ヶ崎村字大原に由来するようです。大塚は茅ヶ崎だけでなく、隣接の東方町や勝田町に散在していることからその名を「大塚原」になったようです。
 提供:関 岳夫さん(勝田町)


     写真左の現在地

 大塚原のこの辺りは農業専用地域、写真左の昭和31年から56年も経っても景観は変わっていません。高圧線の鉄塔が何本も建っています。
 2013.8.27 
撮影:石川佐智子さん(日吉)







昭和48年6月、茅ヶ崎・貝塚谷戸の田んぼの田植え

提供:吉川輝男さん(茅ヶ崎南)





写真左の貝塚谷戸の田んぼが宅地になった現在

後方、屋根の上の森は、写真左の森で、現在は茅ヶ崎中学校前の茅ヶ崎公園になっています。
 2013.8.18 撮影:岩田忠利

 
茅ヶ崎の人



大正末期〜昭和初期、大棚の集荷場、吉田屋で

イチゴを出荷する茅ヶ崎の人たち。
提供:吉川輝男さん(茅ヶ崎南)
     イチゴ栽培の楽しみ

 大正末期から昭和初期の頃、現金収入になるイチゴ栽培は茅ヶ崎でも盛んでした。当時のことを茅ヶ崎町の北村正晴さん(平成13年時、90歳)はこう話す。
 
 「朝早くイチゴを摘み、木箱に詰め、10箱ずつモッコに入れて天秤棒で担いで集荷場になっていた大棚の吉田屋か川崎・中原の井村屋まで運んだものでした。そこからまた、トラックで神田や芝の問屋まで輸送したのです。 納めたイチゴの代金は年1回払いでしたが、当時の農家にとっては貴重な現金収入。カネが入ったとき、親からネルの着物を買ってもらえるのが何よりの楽しみでしたよ」



   昭和29年秋、茅ヶ崎杉山神社祭礼の神輿・山車とともに祭り参加者一同

 右手の家は茅ヶ崎町の通称「ちょい出店」と呼んだ市川征男さんの家です。

  提供:吉川輝男さん(茅ヶ崎南)



         昭和18年、茅ヶ崎の子ども

左から飯塚義昭、吉野 博、吉川輝男、田中(旧姓吉川)トミ子の皆さん

 提供:吉川輝男さん(茅ヶ崎南)







   昭和48年、魚を捕って笑顔で帰る兄弟

 「きょうは、魚をいっぱい捕ったよ〜! あれ、お父さん(左の写真で日の丸の旗を持つ男の子)が、写真を撮ってる〜」茅ヶ崎・貝塚谷戸で。
  提供:吉川輝男さん(茅ヶ崎南)



 昭和28年嫁入り前の女性が通った茅ヶ崎の和裁教室

 中央で椅子に座る人が金子シズ先生(茅ヶ崎東3丁目)。
 提供:吉川輝男さん(茅ヶ崎南)








昭和49年、おばあちゃんと竹薮で竹の子掘り

 
現在地は都筑区役所前、都筑消防署の所。二人はおばあちゃんの吉川サクさんと孫の淳一くん。
 提供:吉川輝男さん(茅ヶ崎南)
神楽と囃子舞(はやしまい)の名人、
               吉川磯右衛門
さん

 吉川磯右衛門さんという人は中肉中背の体でいつもにこやかな表情。舞いにほのぼのとした温かみが漂っています。本業は農家の3代目でしたが、5歳から芸を始めて70歳までその芸に磨きをかけてきました、いわば里神楽とお囃子をするために生まれてきたような人でした。
 その人柄とその芸に惹かれて弟子入りする人、ファンになって毎年のお祭りにその舞を楽しみにしている人が跡を絶ちませんでした。
  昭和30年7月、都筑区にご来臨の三笠宮崇仁殿下にも
三番叟(さんばそう)を披露され、“神楽とお囃子の舞の名人”で知られていました。
 昭和512月死去、享年72歳。


昭和499月、原町田天満宮祭礼で神楽の代表的な演目、三番叟(さんばそう)を舞う吉川磯右衛門さん
 提供:吉川輝男さん(茅ヶ崎南)

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茅ヶ崎 風景今昔U&茅ヶ崎の人