MAP:センター南駅(茅ヶ崎)地区

校正:石川佐智子 / 編集支援:阿部匡宏 / 古写真収集・文・編集:岩田忠利



茅ヶ崎八景の一つ、「松庵の一本松」


              絵: 鈴木善子(「とうよこ沿線」編集室)

  松庵の一本松(二股松)と伝説

 中丸の茅ヶ崎富士に至る四五六峠を登りきった右側の小高い所が飯塚邦夫・功家の墓地。そこに樹齢数百年の二股の黒松が高く誓えていました。
 目通り26尺(約79b)、根の張りが見事なうえに、左の絵のように幹が二股に分かれ、左右が同じ太さという世にも珍しい松でした。地元では「二股松」と多くの人が呼び、茅ヶ崎村のどこからでも見える目印として村人に親しまれていました。

 この巨木も寄る年波には勝てず、枯れてしまいました。この老木を木こりが切ろうとして鋸を入れたところ、数条の血が流れ出し、一時切ることを止めました。
 ようやくにして倒してみたら、幹が空洞になっていて、たくさんの蛇がそこで冬眠していたのでした。



「自性院谷戸」が今や都筑区の行政・商業の中心地
提供:吉野 勇さん(瀬谷区瀬谷)


   昭和49年、開発前の自性院谷戸の一部

 中央左の家が屋号「やと」の吉野一雄家、右隣は屋号「にいや」の吉野澄夫家。
 提供:吉野一雄さん(茅ヶ崎南)
 ニュータウン開発は、自性院谷戸から始まった! 

不動明王と薬師をまつった「自性院(じしょういん)」というお寺がセンター南駅前、現在の港北東急百貨店の所にありました。このお寺がある谷戸を「自性院谷戸」。ここに先祖伝来の家屋敷を竹林や柿の古木で囲んだ十数軒の農家があり、当然、何代もの命を育んできた井戸もありました。
 
 港北ニュータウン開発はまずこの谷戸の農家を他の場所に移し、木を切り、山を切り崩し、井戸を埋め、そして何十台ものブルトーザーで整地し道路を造ったのです。わずか三十年足らずの歳月が流れた今、自性院谷戸は昔日の面影は微塵もありません。
 都筑区役所・保健所・図書館・公会堂・消防署などの庁舎と百貨店などの商業施設が建ち、今や都筑区行政と商業の中心街となったのです。



平成7年、センター南駅を中山・北山田線から望む






 昭和56年、写真左とほぼ同じ位置から開発前の風景

 屋号「うどん屋」と呼んだ飯塚家前から三角山を望む。





平成7年、センター南駅を中山・北山田線から望む








昭和56年、写真左とほぼ同じ位置から開発前の風景

 屋号「兵さん」と呼んだ城田家前から自性谷戸を望む。







平成6年12月、センター南駅前から都筑区役所を望む








               この木の所が現区役所


 昭和56年8月、写真左と同じ位置から開発前の風景

 自性谷戸の城田家入り口から望む。この丘を削って造成したため今の景観からは想像できないほど変わりました。

TOPに戻る

NO.14 へ

画像をクリックすると、拡大されます。拡大後は左上の戻るボタンをクリックしてください

  
 
茅ヶ崎八景の一つ、「境田の暮雪」

提供:北村 博さん(茅ヶ崎南)


  「茅ヶ崎八景」の名付け親は、慶応年間の茅ヶ崎村・岸 宇作という人。村内の美しい景色の8カ所を決め、その八景は大正時代まで人々に語り継がれてきたという。
 下の写真に写る地域は八景の一つ、「境田の暮雪」と言われた所。それが『港北百話』という本に以下のように紹介されています。

 境田橋から矢崎橋までの早渕川右岸に沿った境田全域は、底冷えのする日が4、5日続いた後の大雪になると、2尺から3尺も積もり、こうしたことが一年に2〜3回あった。

 白一色になった田畑や山裾をぬって、細い2間幅の道が茅ヶ崎村から荏田村に通じていた。人が歩くにも、腰まで雪ではどうにもならない。
 早渕川の土手は、左右両岸とも真竹が密生していたが、先端はみな雪の重みで地についている。時折ポーンという竹折れの音と風の音以外は聞こえない雪の暮れ、他の地区では見られなかった境田の暮雪であった。



昭和39年10月8日、茅ヶ崎町「境田橋」周辺


写真上の道路が拡幅、中山〜北山田線に架かる「境田橋」を望む同じ場所の現在

写真上の景観とは、まったく別世界のようです。後方はセンター北駅方面。
2013.8.9
 撮影:石川佐智子さん(日吉)
    
NO.13
都筑区行政・商業の中心地、茅ヶ崎風景今昔