住民と学校(山下小学校)



  昭和13年、卒業同級生が校庭に砂利を敷く作業

 泥土の校庭は雨が降った後はぬかるみになり、使えない。見かねたOBの同級生が勤労奉仕で校庭に砂利を敷きました。左が木造平屋建ての校舎、右は奉安殿。

  提供:宮田一郎さん(小山町)

  


 昭和17年、戦時中の山下国民学校卒業生と校舎

 校名は「山下国民学校」。男子児童は戦闘帽、女子はモンペ姿が目立ちます。校舎の窓ガラスは空襲の爆風で破片が飛び散るのを防ぐため半紙で目張りしてあります。時局はまさに戦時下です。

 提供:宮田一郎さん(小山町)


 平成25年、横浜博覧会会場からきたクスノキ

 後方真ん中の木が山下小学校校庭に植えられた記念樹、クスノキ。校門に立つ山田 仁校長(右)と元同校校長・栗原茂夫さん(左)。



平成4年校長赴任の翌年、山下小を去る時

 離任式を終え、別れを惜しみ、栗原校長のもとに駆け寄る児童たち

  提供:栗原茂夫さん(港北区高田西)
     
  
 横浜博覧会会場からきたクスノキ

             山下小学校元校長・
栗原茂夫さん

 副校長になったばかりのわたしがはじめて出会ったのが横浜市立山下小学校の子どもたちでした。平成元年の4月でした。
  この年、横浜市は開港130年、市政100年という節目を迎え325日より横浜博覧会が開催されていました。「宇宙と子供たち」がテーマだったこともあり、市内の児童たちは皆ウキウキしていました。開催地から遠い緑区の学校ですが、山下小学校6年生の興奮は格別のようでした。手作りの神輿を先頭に山車を引いて博覧会の会場を練り歩くというイベントに直接参加できたからです。「市内で最も歴史の古い小学校」との理由から選ばれたと聞きました。

 博覧会が閉幕したあと会場を飾ったクスノキが希望する学校に譲られました。九州あたりから会場に運ばれたとかで、さほど大きな樹木ではなかったのですが山下小学校の校門のそばに植えられました。6年生の「手作り神輿」を見物したかもしれないクスノキでした。

 その後を確認したくて、先日久しぶりに山下小学校を訪れました。20年余の歳月のなかで、クスノキはしっかり幹を太らせ枝葉を繁らせていました。「手作りの神輿」で博覧会会場を沸かせたあのときの6年生たちも、いま目の前に観る貫禄のクスノキに負けないような立派な大人になって今を生きているのだろうな……さまざまな思いが交錯するなか山下小学校を後にしました。

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       「編集室」からのお知らせ

 ここに登場の栗原茂夫さんは、太平洋戦争の玉砕の島、サイパン生まれ。その少年時代は夜を徹し家族と逃げ惑う日々。そんななか、父は行方不明・弟二人が餓死。その悲惨な体験は、まさにドラマを地でいくものでした。
 その模様を、栗原茂夫さんが当サイトの「ドキュメント 少年の戦争体験」で多くの写真とイラストで連載しています。どうぞ、ご覧ください。
  
 また、栗原さんは次代を担う子供たちや地域の皆様に先の戦争を風化させないため、戦争の非情さ・残酷さをスライドショーで語るボランティア活動を各地で展開しています。
  栗原さんのスライドショーを「見たい! 聴きたい!」お方、当編集室の岩田忠利までメールまたは電話でお知らせください。

 


        
住民の生活、点描



       大正13年、青砥町の裁縫塾

 先生は前列中央の野村ギンさん。彼女の実家は川和町の呉服屋。幼い頃から衣装文化に接し裁縫や着付けの技術や知識を身につけていました。

  提供:野村ナミ子さん(北八朔町)










  昭和4年、人力車の前で野村孝さん

 母は写真左の裁縫の先生、父は農工銀行川和支店長でいつもこの人力車に乗って通勤していました。

  提供:野村ナミ子さん(北八朔町)



昭和30年、今では珍しい藤製乳母車

提供:飯田靖夫さん(青砥町)


昭和30年、母乳の予備用に飼っていたヤギ

提供:野村ナミ子さん(北八朔町)








             恒例の祭り


       昭和21年、戦後初の祭り

 お祭りに青年団が舞台を作って演芸会を開き、住民に披露しました。

  提供:落合康夫さん(小山町)


昭和53年揃いの半纏で手作りの子供神輿を担ぐ子供

提供:坂間 武さん(西八朔町)




昭和57年10月、杉山神社の御遷宮祭

幟(のぼり)を立てた最後の祭りになりました

提供:松下一夫さん(西八朔町)















  平成3年、大太鼓が府中から来た祭り
                    提供:松下亮一さん(さつきが丘)

 人間の身の丈ほどもあるこの大太鼓は府中から応援に駆けつけ持ち込んだもの。野球のバット大のバチで叩くと地響きがするほどの音がします。
 西八朔の杉山神社は平安時代、武蔵国の国府が置かれていた東京・府中の総社、大国魂神社の六所宮の一つで「六之宮 杉山神社」と呼ばれていた由緒ある神社でした。



      平成14年、年中行事・どんど焼き

 どんど焼きの炭火で餅を焼き、この年一年の無病息災を祈る子供と大人。

  提供:坂間 武さん(西八朔町)








 平成14年、地神講の宿になった家に掛けられた掛軸

 小山町では毎年暦の上で「社目」に当たる春秋の年2回、五穀豊穣の祈りを込め、地神を講組織で祀る風習が、今も続けられています。

  提供:落合康夫さん(小山町)

      
近郊農業の里、旧中里地区



春は近所の人も手伝って梨の花粉付け

提供:落合 実さん(小山町)


     新鮮野菜とフルーツの宝庫

 都市化が急ピッチで進む緑区の中にあって大自然の緑の葉が波打つのどかな農業地帯が残っていることは、どれほど有難いことでしょうか。朝夕の散策しながら採りたての新鮮野菜や産直の花卉、また秋の“浜なし”やブドウ狩り、と一挙両得……。
 
 その農業地帯は本の川沿いに広がっています。その一つは鶴見川(谷本川)沿いの北八朔の北部地域。一方は恩田川沿いの西八朔・小山地域。いずれも近隣の住民の生活に限りない潤いを与えています。

 
 ここでは今なお農家が稲作を行い、神奈川県奨励品種のキヌヒカリを栽培。また大都市近郊農業として梨、柿、ブドウ、栗などの果樹栽培と花や苗木の栽培が盛んです。
 とくに梨は「浜なし」という地場ブランドで幸水、豊水のほかに「新星」という品種も作っています。柿は禅寺丸、富有、次郎、太秋(たいしゅう)から生花用に豆柿も。ブドウの作付けは少ないが、紅伊豆(べにいず)、竜宝、藤稔(ふじみのり)という品種が直販され、好評です



秋は収穫期。丹精こめた梨が台風で一夜にして台無し。

提供:落合 実さん(小山町)





 台風にめげず完熟した梨は、格別の美味しさ!

 その味が忘れられず、毎年たくさんの梨狩りのお客さんが見えます。
  提供:落合 実さん(小山町)


昭和34年、甘柿「禅寺丸柿」の出荷準備

提供:飯田靖夫さん(青砥町)


この地域の特産品、甘柿「禅寺丸柿」のラベル







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校正:石川佐智子 / 編集支援:阿部匡宏 / 古写真収集・文・編集:岩田忠利

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NO.8  旧中里村、暮らし点描