校正:石川佐智子/ 編集支援:阿部匡宏/ 文・編集:岩田忠利

MAP:都立大学駅地区

TOPに戻る NO.9 へ


          明治時代後期、八雲尋常高等小学校児童

 男女児童が左右別々に並び、全員がハカマ姿で壇上の先生に合わせ体操、それとも万歳、どちらなのでしょう? 
 八雲尋常高等小学校は明治5年東京府から認可された目黒区最古の学校です。明治期の小説家、国木田独歩の小説『酒中日記』に同校教師が主人公で登場しています。
 提供:八雲小学校(八雲2丁目)


大正末期、東横線敷設の柿の木坂切り通し工事

                            提供:小杉良裕さん(柿の木坂1丁目)

蒸気機関車クラウス号の進行方向は現都立大学駅。後方は学芸大学駅方面。右手の竹ヤプが柿の木坂1丁目の住友勇二さんの家、左手の森が田中安造さんの家です。
 
 蒸気機関車を走らせる最初の工事は、ほとんど在日朝鮮人労働者による手掘り。高度10b以上の丘の土を掘る労働は耐えきれないほどの過酷なものでした。その現場では彼らがちょっとでも手を休めると、日本人の監督がスコップで容赦なく殴るという残虐な行為がよく見られたという。その過重労働で亡くなった遺体は母国に帰ることなく、近くの東光寺境内に埋められ、今でも無縁仏として同寺に眠っていると、地元の古老はその事実を証言します。



      大正10年(1921)、畑で野菜の手入れをする同校高等科1年の児童

 左の竹垣は氷川神社、右の雑木林が現在の同校正門前の道の端、八雲1丁目13番あたりです。鍬を持つ子どもの後ろの道が、学校の裏を通る氷川神社境内の脇道と思われます。
 提供:八雲小学校(八雲2丁目)


                明治43年(1910)2月、裁縫塾の生徒たち

 明治時代、現在の柿の木坂の途中あたりで鈴木キクさん(2列目の中央)という女性が、地元の子女を集め、裁縫を教えていました。当時のお正月は旧暦の2月でした。新年の顔合わせに正装で来たのでしょう。子ども以外は全員が当時流行の“ハイカラ”という髪形。それにしても背景が竹林とは、いかにも明治期の目黒らしい。
 提供:白子清治さん(柿の木坂1丁目)


                          大正時代の結婚式

 柿の木坂1丁目の小杉有徳家の結婚式です。長半てんを着た村人2人が祝い舟をかたどった釣り台に縁起物の祝い品の数々をのせ、嫁入り先へ向かうところ。
 共に白髪の生えるまで仲睦まじくと“麻”、子どもが宿るようにと“カツオ節”、祝い事に欠かせない昆布・松・竹・梅などの縁起物が運ばれます。
 提供:小杉安治さん(柿の木坂1丁目)



        大正14年(1924)、八雲小と氷川神社に近い岡田節雄家

 八雲通りに面した正門が母屋に通じ、右の縁台のある茶屋風の家では岡田家が駄菓子と文具を売っていました。しかし昭和14年に火災に遭い、近くで地下足袋・腹掛けなどを商う屋号「足袋屋」に。そして現在は辰巳屋文具店になっています。
 提供:岡田節雄さん(八雲1丁目)



   大正14年、「文化住宅」と呼ばれる和洋折衷住宅が東が丘2丁目に出現!

 この写真は東が丘2丁目14番地の外狩顕章さん宅と家族です

 大正デモクラシーといわれる大衆文化が広まる中、住宅についても欧米住宅への憧れから「文化住宅」という和洋折衷住宅が大正10年以降、見られるようになりました。それは、写真のように玄関脇に洋風デザインの応接間を設けるというのが一般住宅のパターンです。

 提供:井高帰山さん(東が丘2丁目)

画像をクリックすると、拡大されます。拡大後は左上の戻るボタンをクリックしてください

NO.8 明治・大正時代の都立大学地区