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東横沿線の名所だった菊名池
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昭和25年、満々と水をたたえた池にボートが浮かぶ
菊名池の写真は外部の人が持っているケースが多い。見慣れた地元の人より池の魅力にひかれ、観光に訪れた人が撮ったのでしょう。
後方の水道道に砂煙をあげたダンプカーが見えます。菊名池が変わり始めたのは、この頃から。
提供:守屋定善さん(中区)
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昭和29年4月、ボートで花見
ボート代は10円ほどで、時間制限なしでした。
提供:山岡増衛さん(菊名 風月堂)
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消えた菊名池を取り戻した青年たち
山岡増衛(菊名。風月堂店主)
40年前(※本誌『とうよこ沿線』への投稿は1981年(昭和56年5月)の妙蓮寺駅は小さく、ホームも短く、電車も木製でした。マッチ箱のような電車は2両編成、乗客も少なく、運賃は横浜まで5銭でした。駅の周辺は高級住宅ばかりで、一歩歩けば菊名池がありました。
澄みわたった池にはすいすいと泳ぐコイ、フナ、エビ。浅瀬にはカモ、シラサギなどの渡り鳥が飛来し、池畔には八重桜が咲き乱れ、ボート遊びに興ずる若い男女が何組も。
不景気のどん底の昭和14年に独立を決意し、東京・上野から初めてこの地に降り立った私は、妙蓮寺こそ現世の楽園だとさえ思われ、将来発展する永住の地と決めたのでした。
これほど美しかった菊名池がその姿を急速に変えていったのは、たしか三十年代前半からでした。池は汚水の溜め池と化し、メタンガスが沸き、魚はすべて死滅してしまったのでした。
こうした現状を憂いたのは、青年有志たちでした。住民憩いの場を再び、とモデルの図面を描き、そのパンフレットを駅前で住民に配り、横浜市長に体当たりしたのでした。
ついに勝ち取ったのが、今日の菊名池とプールです。あの時の青年有志の粘り強い努力と勇気があったからこそであり、私は彼らの行動を一生忘れることができません。 |
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昭和29年、池畔の篠原教会と菊名公設市場
中央の白い建物がキリスト教の篠原教会、右端の大屋根が菊名公設市場です。
同市場の八百武商店・川井芳男社長の話では「当時市場の前はイモ畑で、市場のこの建物は厚木の米軍キャンプの倉庫を移築したもの」だそうです。
提供:伊藤顕榮さん(篠原東。篠原教会牧師)
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昭和25年の菊名池
現在のスーパーOKからプール方面を見た景色。
提供:伊藤顕榮さん(篠原東。篠原教会牧師)
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写真左と同方向の現在(2013.2.25)
水道道から南の菊名池部分は、埋め立てられて横浜市営「菊名池プール」になりました。夏場2ヵ月間だけ開園。かなり遠方から泳ぎに来る人がいて賑わいます。シーズンオフは、水鳥が飛来する親水公園として市民に開放されます。
撮影:岩田忠利
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昭和29年、西の池畔から望む菊名橋
菊名池のこの水は、篠原地区、菊名地区、さらに大倉山の観音前の田んぼの灌漑用水として使われる貴重な水でした。用水の水門は池の北の端にありました。橋の向こう側に火の見やぐらが見えます。
提供:ルビー理容店(篠原東)
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写真左と同方向の現在(2013.2.25)
同じ方向の景色とは信じられない変わり様です。池は埋められ、菊名橋は広い水道道(すいどうみち)に変わりました。現在でも残っている菊名池は、後方左手の樹木が生えている所だけになりました。
撮影:岩田忠利
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