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昭和20年、隣組の餅搗(つ)き
「和田根」と呼ぶこの隣組は旧綱島街道の菊名5丁目の小泉麹屋(こうじや)から菊名駅に向かって齋藤松太郎家あたりまで。
写真は齋藤松太郎家の庭先での餅つき。手前には燃料の薪が積んであります。薪の量から見て、たくさん搗くようですね。
提供:小泉 聡さん(菊名)
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昭和20年代、茅葺き屋根の菊名山 蓮正寺
茅葺き屋根が境内の木々に溶け込み、尊厳なたたずまいの雰囲気を醸し、いかにも菊名山らしい。もともと、この地は野山に菊の花が咲き乱れる景勝の地であったことから蓮正上人がそう名付けたと言われています。
提供:本多 猛さん(菊名)
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昭和23年、子守しながらザリガニ釣り
前出NO.32の大豆戸町堀上、太田醤油(現富士食品工業梶j前の田んぼでギャラリーを背にザリガニ釣りの男の子。
提供:瀧川定雄さん(鶴見区上の宮)
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昭和25年8月、山車の前に集まった篠原東地区の子供たち
戦後復活した篠原八幡神社のお祭り。場所は菊名池交番から少し岸根寄り、まだ砂利道の水道道。沿道の店は数軒だけ、両側の畑にはナスやキュウリが植わっていました。
提供:港屋クリーニング商会(篠原東)
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昭和25年9月、菊名北町の子どもたち
菊名神社祭礼のとき菊名北町の子どもたちです。
前列左から(敬称略)小泉正、齋藤和子、竹原清治(最前列)、その後ろの子・小川武夫、小川一郎、齋藤勲。後列左から畑野三郎、齋藤美津子、小泉勝徳、竹原和彦。
提供:畑野三郎さん(菊名)
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昭和27年(1952)3月、菊名小学校第1期の卒業生
都心郊外に住宅が増え始め、学区の広い大綱小学校は児童の収容能力を超えました。そこで菊名小学校は昭和26年10月、学期半ばにして分離独立することになりました。
上の写真は移転後4カ月で、まだ後方の教室は完成していないようです。中央左に真壁虎次校長、右に担任の松田先生。2列目右から6人目、齋藤千代治さん。
提供:齋藤千代治さん(菊名)
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昭和25年(1950)10月、菊名の子供たち
現菊名5丁目・齋藤医院の向かい側ですが、当時後方は一面の田んぼ。左端は同医院の齋藤忠徳院長です。
提供:齋藤忠徳さん(菊名)
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昭和27年、菊名神社の戦後初の秋祭り
菊名町内の青年団が中心となり、急造の舞台をつくり住民参加の素人演芸会≠ひらきました。舞台下はお粗末なトタン張り、揚げ幕は神社の“のぼり旗”を横にしたもの。
写真左下の縁の下から一人の男の子(↑印)がひょっこり首をのぞかせています。いかにも物資不足の、戦後初の町内素人芝居といった光景です。実は、この縁の下が“役者”の楽屋だったそうです。楽屋の見張り役のこの子が「ボクも撮って!」と顔を出したのでしょうか。
提供: 椎橋信一郎さん(大豆戸町 )
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昭和27年、稚児行列
菊名駅東口広場をひと周りして毘沙門堂へ向かう稚児行列。菊名5丁目16番(現在の田中レイさん方)にあった毘沙門堂が蓮勝寺境内へ遷座したとき。
駅前の相磯傘履物店、あめや金物雑貨店、張華楼中華料理店の看板が目立ちます。
提供:柴田哲彦さん(菊名。蓮勝寺住職)
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昭和29年、菊名南町お揃いのゆかた
昭和29年(1954)9月、菊名神社例大祭。妙蓮寺の横山染物店製の揃いのゆかたで神酒所前に集まった菊名南町自治会の皆さんです。
前列右端の少年は亀ケ谷薬局(現Fit Care Depot)の亀ケ谷邦博さん(小学3年)。後列右端は吾妻屋寿司店の市川春雄さん、2人目・田丸屋食料品店の石井航治さん、5人目・大津果物店の大津由太郎さん、7人目・左官の小泉与四郎さん、8人目・小泉タバコ店の小泉梅治さん、9人目・横山染物店の横山清吉さん、12人目・佐野屋文具店の佐野大治郎さん。
提供:横山清和さん(菊名)
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昭和28年、菊名小学校周辺
急坂を登った高台にある菊名小学校の校舎、児童が校庭で作った人文字、真新しいプールが見えます。左上の平地は田んぼが広がり、旧綱島街道が見えます。菊名小は港北区と鶴見区との区界にあり、右方向は鶴見区上の宮1丁目の住宅地です。
提供:齋藤忠徳さん(菊名)
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昭和31年、菊名小学校の運動会
提供:岡 和雄さん(大豆戸町)
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昭和30年8月、大豆戸町の最初で最後の山車
大豆戸町が八杉神社祭礼の山車を出したのはこれっきり、つまり、これが最初で最後に。山車を先導するのは石井生花店先代、石井隈次郎さん。左から3人目の子が写真提供者・岡和雄さん。場所は新横浜に近い、大豆戸坂下。
提供:岡和雄さん(大豆戸町)
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昭和31年10月、平和台幼児園初の運動会
丘を切り拓き、道を造り、家を建て、人々が新天地に越して来て、幼稚園初めての運動会です。
撮影:本田芳治さん(篠原北)
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