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NO.26 地下鉄開通、開発進む新横浜、(昭和58年〜60年)

校正:石川佐智子/編集支援:阿部匡宏/編集・文:岩田忠利



昭和58年5月、地下鉄「新横浜駅」工事現場

 本誌『とうよこ沿線』17号「新横浜駅工事現場レポート」から。女人禁制の地下鉄工事現場に女性が侵入したのは、このときが初めてだそうです。この掟を破ったのは、本誌スタッフ、高橋起弥さん。
 
提供:「とうよこ沿線」編集室








 昭和58年5月、地下13bの駅工事現場

 地下鉄「新横浜駅」のコンコースは地下13bの1階。プラットホームはさらにその下、地下2階です。奥に進むと、直径7〜8bの太いチュウーブのようなトンネルが2本、蛍光灯に照らされ大きくカーブし続いています。
 横浜市営地下鉄3号線・横浜〜新横浜間7.1キロは、昭和55年1月に着工し60年4月の開業を目指しています。

 提供:「とうよこ沿線」編集室
  


 昭和58年5月、幹線道路が新横浜駅前に直結

 広い幹線道路は港北ニュータウンにつながる“新横浜・元石川線”。この新しい幹線道路の下に地下鉄の駅ができました。まだ高層ビルは無く、遠望できました。
 写真は奈良建設屋上から新横浜駅をのぞみ、撮影。
 
提供:「とうよこ沿線」編集室



写真左と同じ方向、新横浜駅を望む現在(2013.2.27)

新横浜・元石川線の両側は高層ビルの林立です。
撮影:岩田忠利







昭和58年5月、駅前の地下鉄出入口

 後方の長方形の建物が地下鉄の出入り口。駅前の“一等地”で畑を耕す人がいます。後方はホームに停車中の新幹線列車。

提供:「とうよこ沿線」編集室







  昭和58年5月14日、東方の大豆戸町・菊名を望む

 手前の下はレストランミネタ、左手の白いビルは新横浜ホテルです。環状2号線の交通量はまだ少ない。
 撮影はフジビューホテルから。
 撮影:岩田忠利


  昭和58年5月14日、環状2号線と新横浜駅を望む

 環状2号線の後方は綱島街道の大豆戸交差点、手前が上麻生道路の岸根交差点。新幹線ホームの右手は篠原町です。撮影はフジビューホテルから。
 撮影:岩田忠利


 


昭和60年3月14日新幹線ひかり新横浜増停車

 記念式典のテープカット。白い服の女性は“一日駅長”を務めた女優、五大路子さん、右隣が細郷横浜市長。
 提供:「とうよこ沿線」編集室

 それまで「ひかり」の停車は朝間下り3本、夜間上り3本だけでしたが、下り25本、上り25本と大幅に増え、ほぼ30分ごとに「ひかり」にのれるようになりました。



昭和60年3月14日、地下鉄も乗り入れ、開通!

 前面のスタイルは、従来の1000形と比べてガラリと変わり、営団6000系や7000系に似たスタイルに。側面も、窓枠や方向幕の枠が変わり、製造時から冷房装置がつきました。
 提供:「とうよこ沿線」編集室
 

 
便利になった新横浜、ハマの表玄関に

 ハマの地下鉄は昭和47年(1972)に伊勢佐木長者町〜上大岡間が初めて開通、その後昭和51年横浜〜上永谷(港南区)間に延長し11.5キロに。そしてこの日、昭和60年(1985)3月14日、横浜〜新横浜間7キロと上永谷〜舞岡(戸塚区)2キロが開通し新幹線のダイヤ改正と合致させました。
 運転間隔は朝5分、日中8分、夕方6分と短く、ハマの中心地へ乗り換えなしで行かれるようになりました。
 これを機に新横浜駅前には、各企業のオフィスや店舗が続々と移転してくるようになりました。「ひかり」によって関西方面と、地下鉄によって横浜中心部と直結した新横浜の街は、新しいハマの表玄関として未来へ向けて飛躍の時期を迎えました。
  
文:辻村 功さん(日吉本町)



    昭和60年3月、祝賀パレード

 地下鉄開通と「ひかり」増停車は、地元港北区民が大歓迎。隣町の大倉山商店街の目抜き通りは大人も子どもも住民挙げての祝賀パレード!
 提供:「とうよこ沿線」編集室




平成16年3月、鳥山町の丘から新横浜遠望

 あの緑の大地が40年で“コンクリートの団塊”になりました。それがあまりに巨大すぎて新横浜の西方、鳥山町の丘の上に登ってもその一部しか撮れません。
撮影:宿崎貞夫さん(町田市成瀬
 

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