
大正13年(1924)、東横線開通前の前川平吉家
手前の田んぼは現在大倉山東口の商店街通り「レモンロード」になっています。
これは、大倉山に関する写真の中で私が探した最も古いものでした。
提供:池谷光朗さん(綱島東)
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100万円が14億円に
大倉山地区は太尾、大曽根、師岡などの緑の丘陵地とそれに囲まれた平地、西方に流れる鶴見川、自然豊かな住環境に恵まれています。
ここの宅地化と人口増加は高度経済成長期に入ると急激でした。でも、幹線道路は駅前を通って山裾を東西に走る狭いバス通りが一本だけ。五十年代の道路事情は最悪……。住民の車、通過車両、バス、タクシー、自転車の洪水で、歩行者はしばしば立ち往生、安心して通りを歩けません。
そんな実情を憂えた老人が「安心して歩ける街にして欲しい。これをその足しに.!..」と100万円を商店街に寄付したのでした。
これで奮い立ったのは店主たち。交通の障害となるものを各店が率先して整理。役員たちが市や県に相談に行くと「一定の基金が揃えば支援できるかも」の返事。これでまた意を強くした役員が手分けして組合員の店を回ると、なんと3日間で1000万円が集まりました。
これを“切り札”に役員が市に陳情、その後、紆余曲折を経て、ついに昭和56年度県の事業として採択され、神奈川県初の商業近代化事業の工事が始まりました。道路拡幅で車歩道分離、電話線地下埋設、東横線ガード拡幅、駐輪場1000台新設、全店舗の改築などを実現し、一挙に念願が叶ってしまったのです。
総工費14億418万3000円の原資は、あの100万円。その主は写真左の家の当主・前川平吉さんでした。
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太尾町の古老、黒川太郎さんの話
子どもの頃の大倉山
無医村の大倉山……痛む歯は自分で抜く
子どもの頃、住民が一番困ったのは病気のときでした。大倉山には医者は一人もいません。近在では綱島に山口医院、菊名に椎橋医院、この2軒しか無かったですね。この二人が手におえない病気は、野毛(中区野毛)の十全病院まで行ったんですよ。私は子どもの頃病弱でしたから、母親が私をおぶって野毛まで歩いて行って入院させました。こんな医療状態ですから、一度大病にでもかかったら治らないで死んでしまう人が大半でした。
歯医者なんて、当然一軒も無い。歯が痛むときは、おまじないをする近くの神社で木の葉でこするか、自分で痛む歯に糸を付けて引っぱって抜いてしまうのですね。歯医者は横浜にしかいませんから、歯医者に通う人は大倉山には一人もいませんし、“入れ歯”をしている人も見たことがありませんでした。
麦飯と電燈点火
大正時代、この辺の農家は現金収入って無いんですよ。ほとんど自給自足でしたが、コメは自分の家で作っても食べない。コメのご飯なんか、お正月かお祭りのときでなければ食べられない。麦飯ばかりでしたね。
魚類はお祭りのときだけ、神奈川の子安のほうから売りに来ました。肉類なんかお目にかかったことないですね。
大正12年の関東大震災前に、この大倉山にも“電灯”がつきました。それも一軒の家に1灯だけ。しかも30ワットくらいの16燭(しょく)の明るさで、とがった細長い形の電球。電球がパッとつくと、家族で歓声をあげたのを覚えています。
大倉山駅の定期券乗客“第1号”
東横線開通の大正15年の前年、私は三ツ沢の横浜翠嵐高校、昔の“横浜二中”に入学しました。自宅から学校まで約9キロ、菊名へ出て、妙蓮寺から白楽を通って毎日歩いて通ったんです。当時の交通機関は馬車だけ。それが1日5〜6回通りますが、病人でなければ乗りませんよ。
2年生のとき、東横線が開通して、それは嬉しかったですね〜。朝、太尾駅(現大倉山駅)から定期券で乗るのは、私だけなんですよ。みんな農家ですから、横浜や東京の工場なんかに勤める人は、大倉山には一人もいないんですから……。電車に乗るのは学生と買い物に行く人だけ。「きょうは、大勢乗っているなぁ」!」そんな日で10人乗っていれば最高でねぇ。普段の日で2〜3人でしたよ。
1両の木造車両で、自分でドアを開けて車内に入り、中で車掌から切符を買うのです。駅に切符売り場はありませんからね。電車賃は7銭。乗る人も降りる人も、み〜んな知っている顔ばかり。車掌とは、冗談を言ったりして仲良くなりましたね。それは呑気なもんでしたね〜。
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話す人・黒川太郎さん
大正元年(1912)11月、港北区太尾町に生まれ育ち、大綱尋常高等小学校から県立横浜二中(現横浜翠嵐高)卒業。日中戦争に召集され中支・シンガポール・ビルマで転戦した軍人(陸軍大尉)。 |
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今のように大倉山駅の一日乗降客6万2000人、定期券利用客4万1000人(※この話は昭和63年11月に取材)なんて想像もできませんでした。
鶴見川の堤防切断事件
鶴見川は、昔から“暴れ川”で有名でした。で、この流域の住民は大倉山だけでなく、新羽にしても綱島にしても水害には苦労しているんですよ。
大雨のときには、流域の地域ごとに「早くどちらかの土堤が切れてくれないか」と大騒ぎするんですよ。向こうの土堤が切れると、その分、水量が減ってこっちが助かる。大雨の夜、わざわざよその部落へ行って堤防を切って来るなんて事件も何度かおきました。
大雨のときの芋掘り
台風の襲来は、ほとんど秋です。作物をいざ収穫というときにやって来る。サツマイモなんか、一晩水につかると食べられなくなっちゃう。
子どもの頃、大雨が振り出すと親に「イモ掘りに行ってこい!」と言われるんですよ。篭にイモをいっぱいつめて、それを背負って氾濫した川を渡って家に帰って来るんです。と、その私の光景を見ていた近所の人が「太郎ちゃんは、すごっく水泳が達者だ。あんな重い篭をかついで泳げるんだから」なんて……。
そうじゃないんですよ。篭もイモも水の中では浮くんです。それが浮き袋の役目をするもんですから、スイスイ泳げちゃう。ウソだと思ったら試してみてくださいよ。
大倉山に石碑や石仏が多いワケは…
大倉山の土着民の歴史は、水害との闘いの歴史でした。毎年秋になると、村人たちは、今年の収穫は豊作か、それとも台風で壊滅か……。その希望と不安でいつも悩んできました。水害は個人の力では防げません。だから農民は、苦しいときの“神頼み”に走るわけなんです。
その証拠に、大倉山地区には道祖神などの石碑や石仏がじつに多い。「土堤が切れないように」「また水害にならないように」と、先祖たちはこれに向かって手を合わせ祈ったのでしょう。そのためか、ここ大倉山は、今でも信仰心が厚い所ですね。
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昭和3年11月10日、元号が昭和になった御大典記念
写真は綱島街道沿いの岩田屋前で太尾町市之坪地区の人たち。前列に長老たちが並び、そのほか、歓成院住職、杉山巡査、鈴木長兵衛(岩田屋)、前川泰助、飯田良助(正夫父)、畑野金作(甚蔵父)の皆さん、そして最後列右から2番目が、この祝典のアーチをつくった鳶職・畑野豊吉さん。
御大典とは天皇の即位の儀式で、大正天皇は大正15年(昭和元年)12月15日48歳でご逝去、昭和天皇の裕仁親王が同日から摂政し、元号は大正から昭和≠ニ改元しました。その即位大礼は、昭和3年11月10日、京都御所で挙行。
提供:畑野豊吉さん(太尾町) |
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昭和5年7月、駅名「太尾駅」の駅前
写真は大倉精神文化研究所の建設基礎工事用の資材を運搬する東横電鉄太尾駅の貨車。
当時、鉄骨の建物は非常に珍しく、もちろん大倉山では初の鉄筋鉄骨コンクリート建物。
写真中央で子供を抱く人、黒須重作さん(鳶職。当時37歳)は竹中工務店の下請け業者で、この基礎工事と鉄骨組立工事を請け負い、東京・浅草から若い衆を連れて来て、この山の上の難工事を完成させました。以来、黒須家は大倉山の住人に。
提供:黒須玉恵さん(太尾町)
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昭和5年、大曽根台の天然スケートリンク
当時の経営者は冨川善三さん(冨川成一さんの父)。スケートリンクで滑る女性は成一さんの奥様、美代子さん。提供:冨川成一さん(大曽根)
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行列ができた天然スケートリンク
大倉山の北斜面、大曽根台の山裾に80坪ほどの池が5つありました。その池を利用して明治43年から天然氷を生産、病人用の氷や夏のかき氷に使われていたのです。昭和2年頃から人工氷が生産され、天然氷が売れなくなり、やがて冬場のこの池は天然スケートリンクに変わりました。
当時のスケート靴は下駄に金具をつけた安直なものでしたが、慶応の学生がよく滑りに来ていました。
昭和5年頃から東横電鉄の援助で5つの池を300坪ほどのスケートリンクに新設して本格的にオープン! 東横線各駅にその日のリンクの状態が掲示され、休日には行列ができるほどの賑わいでした。。しかし、戦後、気候がだんだん温暖になり、氷が張らなくなったため、昭和23年ころ、天然スケートリンクは、廃止になってしまいました。
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昭和5年、大倉山の田んぼ、観音前
写真は現在の大綱中の近くで黒川太郎さんが撮影したもの。中央丘の上には大倉精神文化研究所の建物が建設中、まだ足場が掛かっています。
左手の畦道に黒い犬がいて、その畦道の先にコンクリート製の白い物が見えます。これは、「大排水」といって、当時大倉山地区の用水は、遠く2駅も先の妙蓮寺駅近くの菊名池から水を引いていました。その用水の堰です。現在この用水は、大綱中学校の南を走る道路の地下に埋没され暗渠排水路となっています。
撮影:黒川太郎さん(太尾町)
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写真左と同じ方向の58年後、昭和63年の景色
前方中央が大綱中学校。大倉山ハイム2号棟から撮影 撮影:岩田忠利
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昭和7年新築落成した大倉精神文化研究所
丘のすぐ下、斜め右上に延びる道が現在のバス通りの原形。左へ太尾駅(現大倉山駅)、右上へ新羽方面。 田んぼは耕地整理が終了したばかりで、平坦地には人家がたった1軒見えるだけです。
提供:大倉精神文化研究所
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昭和8年、大倉精神文化研究所学生の草取
現在のバス通りに面して白い看板が伊藤理髪店、その左に和洋菓子・梅月堂(現新宿中村屋)、その隣に坂下屋が見えます。後方に霞んで見える丘は菊名、その間は一軒も建物が見えません。
提供:大倉精神文化研究所
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昭和7年、大倉精神文化研究所屋上からの眺望
同研究所の施設越しに鶴見川、丘陵地の新羽、丹沢山塊が望めます。大倉山から新羽に至る平地に一軒の人家も建物も見当たりません。撮影:黒川太郎さん(太尾町)
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写真左から同じ場所から同方向を見た昭和63年
のどかな田園風景は、住宅・商店・工場・学校などの諸施設で埋まり、びっしり。撮影:岩田忠利
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昭和9年、歓成院の稚児行列
稚児行列は現バス通りのバス停「大綱中学前」を西方向、歓成院へ向かうところ。住職は第23世・摩尼興宝さん(現住職・摩尼和夫さんの祖父)です。
提供:摩尼和夫さん(太尾町)
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昭和11年今上天皇の姉宮・順宮様が田植え見学
大倉山に皇族が昭和11年6月にお見えになるのは、初めての出来事。
宮様の前に出るとあっては、ま新しい手ぬぐいにタスキ、緊張した面持ちで田植えを披露しました。
黒の洋服が学習院初等科2年の順宮(よりのみや)様。両隣に級友たち、後方は宮内庁侍従、苗を植える人は、手前が畑野太助さんの妹・平田千代さん、ハチ巻きの男性が古郡一太郎さん。場所は現在の郵便局の反対側あたりです。
提供 畑野太助さん(太尾町)
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