
昭和29年、新羽の赤っ坂
粘土質の赤土の急坂だったことから「赤っ坂」といわれ、雨の日や霜解けのとき、ツルツル滑り、道端の木につかまって登る難儀した急坂でした。
新羽上や新羽下の住民はこの坂を通らずには前者の人は小机経由の横浜へ、後者は新吉田や高田方面へ行けない交通の難所であり、要所でもありました。
“新羽切り通し”が完成し港北産業道路にバスが昭和28年に開通してから、あの赤っ坂を通らずに出かけらるようになりました。
提供:佐藤 玉さん(新羽町)
|
|

写真左と同じ方向を見た現在(2013.2.3)
撮影:岩田忠利
|
|

炭と薪を売る昭和29年当時のお米屋さん
早淵川の吉田橋の近くにある吉田米店。米は統制下にあり配給制度、各米店が株式を持寄って会社組織にし「港北食糧㈱吉田営業所」に。それが店の半分を占め、あとの半分は個人名の「笈川燃料店」でした。
提供:笈川寿次さん(新吉田町)、 |
|
命の次に大事な、米穀通帳と燃料
戦時中や戦後の日本は、あらゆる食糧品が国の管理下にあり、配給制度のためお金があっても買えませんでした。なかでも日本人の主食であるコメは、“米穀通帳”無しではお米屋さんから買えません。それどころか、食堂でカレーライスを食べるときもその通帳無しには食べられません。旅行にも米穀通帳は必ず持参します。旅館で食事をするからです。役所で住民登録するときも本人確認のため必要でした。
コメの統制が完全に廃止されたのは昭和57年(1982)の食糧管理法が改正されてからですから、まだそんなに昔のことではありませんね。
さて、本題の笈川さんの吉田米店の話。配達区域はしっかり決められ、早淵川の西側一帯の新吉田町が配達エリア。
当時の道は舗装していない泥道。自転車での冬の配達は、朝早くから走り回らないと、店に帰れないほど難儀します。霜柱が溶けると、田植えの田んぼのような泥んこ道。自転車の車輪が回らないほどベットリ泥がつきます。
店の半分で、木炭、石炭、練炭、薪、灯油を売っていました。当時は、今のような電気炊飯器やガス風呂など無い時代ですから、燃料は必需品です。15キロ詰めの俵で入荷する長い木炭を、家庭で使いやすいように10センチほどにノコギリで切る“炭切り”という作業、それを笈川さんは奥さんと一緒に毎晩深夜までかかって翌日の販売量を間に合わせてそうです。
|
|

昭和30年、大水で1キロも流された亀甲橋
昭和13年6月の大水で1キロ以上先の田んぼに流され、住民の協力で元のこの場所に戻った木橋(その説明はNO.17掲載)。後方右手がJR小机駅です。
撮影:川田需さん(日吉本町) |
|

写真左と同じ方向を見た現在(2013.2.3)
亀甲橋はコンクリート製の大きな橋に架け替えられ、後方左にはサッカー・ワールドカップが開催された横浜国際総合競技場が見え、景観は一変しました。
撮影:岩田忠利
|
|
|

昭和30年、稲の掛け干しの先にボンネットバス
現高田西1丁目の早淵川の土手の上から稲の掛け干し越しに綱島行きのバスを撮った情景です。このバス路線は昭和25年(1950)、綱島~勝田間(現日吉~元石川線)に開通しました。右後方の家は宮川久作さん宅。
提供:横川直二さん(高田西)
|
|

昭和32年、農協新田婦人部役員の背後に
石の門柱が
女性の皆さんの背後に見える御影石の門柱は、「新田村役場」にあったもので村役場跡を示す史跡としてこの当時残っていました。村役場は、新吉田町のバス通りに昭和60年代まであったJA横浜北新田支所の向かい側あたりにありました。
提供:中村ハツ子さん(高田西) |
|

昭和34年土地改良後の新吉田・四ツ家前の耕地
田んぼの中に定規で線を引いたような真っ直ぐな道が続いています。
提供:加藤清明さん(新吉田町)
|
|

写真左と同方向を見た現在(2013.7.26)
撮影:石川佐智子さん(日吉)
|
|

昭和37年、母屋の上棟式
新羽町の小山三郎さん宅の上棟式の情景。やぐらの上に施主や親戚、大工の棟梁や鳶のかしらが並び、その前に新しく編んだ俵の中に丸餅が入っています。下にはその“投げ餅”を待つ人たちが集まっています。
提供:小山三郎さん(新羽町)
|
|

昭和38年冬、ツララが下がった家
新吉田町の山本昌一さんの家では写真のように最長1メートルにもなるツララが軒の下に垂れ下がります。お見事ですねえ~!
近年、地球温暖化現象で北極の氷が溶ける時代、こうした光景も見られなくなりました。
提供:山本昌一さん(新吉田町) |
|