題字:新舟律子/ロゴデザイン:配野美矢子/校正:石川佐智子/編集支援:阿部匡宏/編集・文:岩田忠利
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川田さんの話 「狐に化かされた話」 天秤棒をかついで羽田まで通った曾おじいさん 子どもの時分に、おばあさんがよく話してくれた話です。私が生まれた年に93歳で死んだ曾おじいさんのこと……。この人は川田文治郎と言って、いまの大田区羽田までよく通ったそうですよ。 天秤棒の前と後に肥え樽を吊るして、羽田まで歩いて通ったんだそうですからねえ(笑い)。行きは天秤棒に野菜をくくりつけて、帰りは桶に下肥(しもごえ)を入れて、羽田から日吉まで……(笑い)。あの頃は、今のように整備された道じゃなくて、田んぼや畑、ヤブや湿地で回り道ばっかりだったのに……。今では直線のいい道でも17キロですね。 桶が重くなったり、軽くなったり…… 帰り道、暗くなると、ときどき後の肥桶が急に重くなるんだそうだ。すると、曾おじいさんが天秤棒の先のほうに吊るしておいた油揚げを千切って、後ヘポイと投げる。すると、軽くなる……。しばらくして、また重くなる。また、後へポイッ……。 そんなことを繰り返しながら、暗い夜道を帰ってくるのだそうです。やっぱり、あのイタズラは、キツネの仕業だというんですからねえ。つまり、「キツネに化かされたんだ」そうです(笑い) 「日吉にキツネがいた」なんて今の人たちは、信じないかもしれませんが、たしかに日吉にキツネはいましたよ。私が専門学校に入った昭和8〜9年の頃、猟師が「とっときの最後の一匹を撃ち取った」って騒いでいましたから……。その場所は、いまの南日吉団地の辺りですよ。あそこは、ススキがいっぱい生えていましたから……。 |
「昔の人の健脚ぶり」 肥桶かついで羽田まで通ったなんて昔の人は、健脚でしたねえ。こんな実話もあるんですよ。 屋根から転落した怪我人 箕輪の諏訪神社近く、小泉さんの茅葺きの大きな家が火事に遭ったんです。その時、うちの親戚の人は、自分の家も茅葺き屋根で火の粉が飛んできて飛び火で燃えてしまうのではないかと、竹薮から枝葉がつけた青竹を切ってきて屋根の上で懸命に火の粉を振り払っていたんです。あんまり夢中になっいて、足を滑らせ、屋根から転落、大怪我をしちゃった。 戸板に乗せた怪我人を4人で担ぎ、日吉〜川崎〜大森〜銀座〜千住まで 村人4人が怪我人を戸板の上に乗せ、それぞれ4隅をかつぎ、医者へ連れて行くことに。日吉から一番近い医者は川崎にしかいません。そのコースは箕輪を出て、矢上〜鹿島田〜小向〜川崎まで。戸板の上の怪我人に「もうすぐだ、がんばれ!」なんて励ましながら、川崎の名倉接骨医に着いたんです。ところが、運悪く、そこは休日だったそうです。 と、一人が「名倉は千住にもある」と叫び、こんどは川崎から多摩川の六郷橋を渡って行くんですよ。大森〜大井〜品川〜泉岳寺〜新橋、それから銀座近くの今の昭和通りをどんどんのぼって上野、さらにその先、千住の名倉接骨医まで、ついに駆け込んだというんですからねえ〜。 今だったら電話して救急車を呼ぶところでしょうが、当時は、日本中どこにもそんなもん、ありやしませんからね。当時の連中の一人が日吉本町の加藤小太郎さんといって、88歳でまだピンピンしていますよ。 |
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NO.5 | 南日吉、半世紀前の話 (そのU) |
撮影者・話す人 | 川田 需さん(日吉本町3丁目) | 平成元年、79歳で他界。昭和55年、沿線誌『とうよこ沿線』3号に70歳のとき登場し、昔の南日吉の興味深い話をたくさんされました。歯科医のかたわら、休日には趣味の写真撮影に自転車で走り回り、日吉周辺の風景を撮り続けました。 |