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浩(ひろ)夫人の日吉の実家、嵯峨家で娘・慧生(えいせい)さんをカメラに収める愛新覚羅溥傑(あいしんかくらふけつ)さん
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兄・溥儀(右)の皇帝執政式に日本から駆けつけた弟・溥傑さん
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昭和7年(1931)3月1日、満州国が建国されました。
満州国の執政の最後の皇帝、いわゆるラストエンペラー「宣統帝」の溥儀(ふぎ)です。
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満州国皇帝の弟、溥傑さんは学習院と陸軍大学で学び、向学心と実行力に富み、王族としての傲慢さを微塵も感じさせない人でした。
日吉西口駅前近くの公爵・嵯峨家の令嬢、浩さんと結婚したのは昭和12年4月のこと。敗戦後、溥傑さんは日本帝国主義者と結託し祖国民族に空前の災害をもたらしたという罪で16年に及ぶ獄中生活を余儀なくされました。
2人の間に生まれた長女で美人の愛新覚羅慧生さんが学習院大学時代に伊豆・天城山で片思いの学習院の学生にピストルで射殺されその学生も自殺、という悲報は獄中で聞いたのです。
当時日本のマスコミは「混血プリンセス、天城山心中事件」と騒ぎ立てたり、溥傑・浩さんの結婚を評して日本と満州国親善のための政略結婚とか、日本の軍閥が仕組んだ満州国を略奪するための政略結婚と書き立てました。兄で満州国皇帝・愛新覚羅溥儀の生涯と一族の流転を描いた映画『ラスト
エンペラー』を観た方も多いでしょうが、一連の真相は浩夫人が昭和34年に日吉の実家でしたためた『流転の王妃』に凝縮されています。
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晩年の溥傑さん
日吉の嵯峨家で |
刑期を終えて静かに中国で暮らす溥傑さんの慰問と旅行を兼ねた一行が、何度か中国へ渡ったのです。地元日吉からは井口茂さん(井口文華堂)や小島敏夫さん(小島硝子店)が同行しました。そのたびご機嫌で、書を頼むと快くその場で流麗細緻な筆致で漢詩を書いてくださいました。そして遠来の一行に対してこんなこともおっしゃる。「日本の方は、もともと私のことを好きではないのですよね」「そうでしょ、だって私はフケツですから」。溥傑と不潔を掛けて笑わせるジョークの達人でもあった、と井口茂さんは大清王朝の最後の帝、その実弟の横顔を話します。
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井上正夫演劇道場を構えていた井上正夫
提供:菱沼美恵子さん(南加瀬)
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昭和24年、愛犬と散歩に出かける井上正夫
昭和16年に写真の茅葺の農家を買い、昭和19年から日吉に移り住み、玄関先に「井上正夫演劇道場」の大きな表札を掲げ、多くの俳優たちが出入りしていました。
この写真の翌年、昭和25年急逝、不帰の人に。
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日吉に建つ井上正夫の碑 |
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昭和23年、出演映画『鐘の鳴る丘』の場面
井上正夫(右)が英(はなぶさ)百合子、佐田啓二(中井貴一の父)と共演。
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急逝の翌年、井上道場に集まった門下生たち
前列に小堀誠、鈴木光枝、寺島信子。
後列に市川翠扇、松本克平、蜂野豊夫、佐々木隆、竹内京子、山田巳之助ら舞台に銀幕に活躍した懐かしい面々。
この日、欠席の門下生に初代・水谷八重子、岡田嘉子、山村聡、劇作家・北条秀二らがいます。
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日吉の土で焼いた作品を「日吉唐津」と名づけ、絵づけに熱中する本人
撮影:笠松節和さん |
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日吉2丁目に昭和15年以来の窯。いまは親族に受け継がれています。
撮影:岩田忠利
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日吉の名所、慶應イチョウ並木
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昭和9年、慶應大学予科開校時に植えた苗
提供:松井武夫さん(日吉)
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平成5年、慶應日吉キャンパス正門と銀杏並木
撮影:岩田忠利 |
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78年後の平成25年1月15日
写真上と同じ場所、写真上の苗木だった銀杏の木。
撮影:岩田忠利
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平成24年晩秋、黄金色に染めた銀杏並木
撮影:岩田忠利
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