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昭和3年、造成が完成した「日吉台田園分譲地」

 
今から85年前、19万8000平方メートルが造成され売り出された「日吉台田園分譲地」
                     提供:小嶋英佑さん(箕輪町)



平成5年、上の写真と同方向の景観
 
 
左の写真と同じ方向を平成5年(1993)1月、慶應大学図書館棟の屋上から撮影
 
                                   撮影:岩田忠利
 
 上の写真は東京・横浜電鉄(東横電鉄、現東急東横線))の横浜~渋谷間が昭和2年に全線開通した翌年、田園都市㈱(東急の前身)が放射線状の街区に造成して「日吉台田園分譲地」として売り出した当時の日吉駅西口の風景です。
 分譲地の右手に見えるたった一軒の建物らしき物は加藤酒店。この店は現在のサンロードに面し、現在1階が三井住友銀行が入っているウイステリア日吉のビル。放射線街区は左から順に現在の浜銀通り・中央通り・普通部通りが写っています。
 手前は畑(現在は慶應大学校舎)。その左に一本の大きな木があり、その左横にホームのベンチに雨よけの小さな屋根が見えます。昭和8年まで日吉駅の出入り口は西口だけで電車は1両。運転手の奥さんが切符を売り、ホームに乗客がいなければ通過するというのん気な東横線でした。
 
 大正9年上記の田園都市㈱は、畑だった現日吉駅西口周辺の土地を坪5円で買収し昭和4年に19万8000平方メートルを「日吉田園分譲地」の名で売り出しました。ところが、当初は買い手がつかず、会社は苦労しました。そこで、五島慶太氏は三田の慶應義塾大学に日吉東口駅前の土地、7万2千余坪を気前良く寄付することを申し入れました。
 慶應の日吉移転の話がトントン拍子に進んだのは、それからでした。慶應義塾大学予科(いわゆる教養学科)校舎が落成した昭和9年4月には、分譲地の売れ行きは一気に10倍以上に跳ね上がりました。


 東横線は地下を走り、その上で駅ビル工事が進んでいます。
 手前の道路は綱島街道。左手のコンクリートの杭が出ている下が日吉駅舎。右手コンクリートの人工地盤が日吉東急百貨店の建設現場。左右その間が西口と東口を結ぶ、現在の吹き抜けの自由通路です。
 駅ビル完成後は、建物に遮断され同方向の撮影ができないと判断し、慶應大学の協力を得て綱島街道沿いの慶應大学校舎の屋上に昇って撮っておいたのは正解でした。
 
 ちなみに、2011年度の日吉駅1日平均乗降客数は、東横線が138,364人、目黒線が42,131人、横浜市営地下鉄グリーンライン30,813であり、合計211,308人です。






  東京横浜電鉄、最初の開通区間は「神奈川線」

 
大正15年(=昭和元年)、東京横浜電鉄が丸子多摩川駅(現多摩川駅)~神奈川駅(現廃駅)が最初に開通しました。開通が実現したのは、日吉2丁目~同3丁目に連なる丘陵地を切り崩し、その土砂を新丸子駅~日吉駅間の低地に埋め立て電車の軌道が完成したからです。これが右の「東急電鉄発祥の地」の記念碑が日吉に建った理由であり、当時の開通祝賀会も日吉で盛大に行われました。
 
 翌年の昭和2年に丸子多摩川駅~渋谷駅間が開通し現在の東急東横線の原型ができました

 
沿線誌「とうよこ沿線」60号から転載











記念碑「東急電鉄発祥の地」

 日吉2丁目、日吉不動尊前に建っていた記念碑「東急電鉄発祥の地」。現在は元住吉電車区車庫敷地内に移築
 
撮影:岩田忠利


昭和11年、渋谷行き、64人乗り1両電車
 
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 鶴見川の鉄橋を渡り、駅「綱島温泉」へ向かう
 
撮影:綱島・松村写真館





     昭和4年、日吉下りホーム待合室

 
最上段、昭和3年の写真に写るベンチの屋根は、このホームのベンチ。後方の建物は慶應大学予科建設事務所です。
 
提供:佐相写真材料店
NO.1 日吉は東急電鉄発祥の地。その理由は?

題字:新舟律子/ロゴデザイン:配野美矢子/校正:石川佐智子/編集支援:阿部匡宏/編集・文:岩田忠利

日吉地区の地図