校正:石川佐智子/ 編集支援:阿部匡宏/ 文・編集:岩田忠利

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NO.23 川崎中部地域、20世紀の生業NO.1
◆醤油醸造--石橋醤油店(小杉陣屋町  
 明治3年の創業時は農業との兼業でしたが、大正12年に醤油と味噌の専業となり、「文山」というレッテルで近隣を中心に横浜・都筑郡や東京・大田区方面へ販売していました。
 一時は丸子の渡しの船頭が「お前の所のお客さんが多く、それで舟を出すようなものだから、酒代をくれ」というほど繁盛したという。



 大正時代、中原街道に面した石文醤油店(昭和26年、石橋醤油店に改称)の蔵を移動する曳き屋工事のとき。
 
前列中央が創業者の原文三郎さん(修一さんの曾祖父)。
 提供:原修一さん( 小杉陣屋町)


昭和24年当時の従業員

後列左端は小杉陣屋町の織茂章一さん




◆研ぎ屋--(丸子通)
昭和15年、中原街道の丸子通にリヤカーを引いた刃物の研ぎ屋≠ェよく通ってきました。
 提供:大貫照夫さん( 丸子通)
◆研師--柳川清次(上丸子八幡町)
 
 刀といえば昔は武器、今は美術品。日本刀の研師は、刀がよく切れるようにするだけでなく、刀の美しさも守らなければならない。ただ切れるようにするだけなら、研ぎ屋さんの仕事。人間国宝・小野光敬氏に弟子入り、修業10年後、研師となる。


柳川清次さんは日本刀の数少ない研師の一人です。

◆運送業--内藤自動車(下小田中)  
 大正13年、川崎市内で最初といわれる米国フォード社のトラックを購入して内藤太三郎さんは運輸業、内藤自動車を始めました。
  その1号車は積載量500キロ、ガス灯をフロントに吊るしたヘッドライト、タイヤは空気の入らない木製スポークに丸い金属の輪にゴムを巻いたもので、走るとガタガタと振動激しく、快適な乗り心地ではありません。それでもトラックの威力を十二分に発揮しました。  
 
 当時の運送業は荷車を馬に引かせた「馬力屋」という人たちの仕事でした。地元農家の生産物を積み東京・都心の市場まで運ぶのには夕方5時に出発し、深夜に到着、帰宅は翌朝9時前後でした。 
 それがトラックなら1日3往復できたのです。鮮度が命の生花や果物を運ぶにはますますその能力を発揮。市ノ坪の花卉、登戸の梨、高津の桃の出荷を手がけ、トラックの台数も増やして事業を広げていったのです。
 しかし戦時中のガソリン不足と運送業者の統合のため、内藤自動車は戦後、自動車修理業に切り替えました。



昭和初期2号目のトラックを運転する内藤太三郎さん

 1号車とは違って、ヘッドライトが付き、空気入りのタイヤで時速30〜40キロと進歩しました。
 提供:内藤守さん(下小田中)




昭和初期、中原町が初めてフォード社の消防自動車を購入

 右の人が内藤太三郎さん。上小田中の泉澤寺前で。
 提供:内藤守さん(下小田中)

◆イチゴ栽培--大谷苺園(今井仲町)
 昭和12年3月、石垣イチゴを近隣で最初に導入、ブランド名を「福羽苺」とし「おいしいイチゴ」と新宿・高野フルーツや日本橋・千疋屋で好評でした。


写真の人が自宅の庭で石垣イチゴを始めた大谷文治さん

 旺盛な研究心と努力の人で24歳の若さでした。
 提供:大谷正勝さん(今井仲町)
 イチゴは傷み易い。朝早く摘み取り、できるだけ早く納品しないと傷んでしまいます。
 木箱に詰めたイチゴを両手に持てるだけ持ち、東横線の始発電車に乗って日本橋・千疋屋へ納品に行くのは、昭和23年に嫁いだ新妻、チヨさんの仕事でした。

 「家に帰ってもまだ手がしびれていましたよ」とチヨさんは当時を述懐します。
 人気銘柄「福羽苺」も静岡県の石垣イチゴが大生産地になったため、昭和33年を最後にイチゴ園を取り壊してしまいました。
◆青果市場--中原食品市場(小杉町)
 昭和11年に武蔵小杉に青果市場がオープンしたことで近郷の農家は多摩川を渡って東京の荏原青果市場まで出荷する労力が省け、大変喜ばれました。この市場は社長の長男、大野貫一さんが受け継ぎました。



昭和11年2月、中原食品市場株式会社(社長・大野松治郎さん)がオープン
 
提供:大野省吾さん(今井西町)





    昭和25年1月3日、久末産野菜の初荷

 白菜、ねぎ、ゴボウ、ニンジン、俵の中にサツマイモやジャガイモを入れ、積み方も大漁船をかたどったように積みます。そして旗をたなびかせ景気良く市場へ向かうのです。
 提供:森昇さん(久末)
◆酒類・雑貨--すみ田屋(小杉町)  
 上の写真と同じ日の昭和11年2月、中原食品市場・社長の次男・大野孝治さんと夫人イトさんが酒類・雑貨の「すみ田屋」を開店しました。



酒類・雑貨の店「すみ田屋」の店頭で並ぶ大野孝治さんと夫人イトさん。
 提供:大野省吾さん(今井西町)
 この店は現在の中原警察署の所(上の写真に写る2階建ての家の1階)にありました。
 当時は小杉新道といわれた府中街道ができたばかり、人影の少ない吹きさらしの田んぼ道が続いていました。
 「小杉新道の田んぼの隅っこにあったから『すみ田屋』という店名なんだよ」と笑顔で話す大野省吾さん。つまり、この店が今日のス−パーチェーン5店のフードハウス大野屋発祥の地となりました。
◆素麺製造--嵯峨野商店(木月)  
昭和13年、素麺製造業の嵯峨野商店が開店。
 井田や木月では素麺作りが盛んでした。元川崎市議・田辺兵助さんの家や徳植常松さんの家も素麺業。そして嵯峨野 一(はじめ)さんの父、春吉さんは2代続く屋号「扇や」の2代目で、素麺を宮中に献上したこともあるそうです。田辺一郎さんの家は何年経っても屋号が「素麺屋」で通っています。
 写真の嵯峨野商店は現在麺から米へ商売替えし嵯峨野米店に替わりました。



素麺を干す店主の嵯峨野辰五郎さん(一平さんの祖父)

提供:嵯峨野一平さん(木月)


山形県から来て素麺作りを手伝っていた
若い従業員
◆農家の副業--しめ縄作り(市ノ坪)  
 市ノ坪のしめ縄づくりの歴史は古い。明和7年(1770年)東京・葛飾から当地の野辺家に養子に来た人が、農閑期の副業にとその技術を伝授したのが始まりといわれています。
 米作収入の数倍の利益があり、大みそかにはまとまった大金が入るので市ノ坪地区だけでも50軒近い農家が副業としていました。
 12月中旬の忙しさといったら猫の手も借りたいほどで早朝から深夜まで老人や子供まで総動員。農家1軒当たりでごぼうじめ3,000本、玉飾り1,800本、輪飾り10,000個以上を作りあげるのは大変な作業でした。



昭和12年12月横山新太郎さん宅は家族総出のしめ縄作り

 右が本人、中央が父・辰五郎さん、左端が奥さん。手前のしめ縄は川崎大師平間寺に納める品です。
 提供:横山新太郎さん(市ノ坪)


しめ縄作りに精を出す市ノ坪の川口正治さん
 

 撮影:岩田忠利



◆提灯・雨傘・絵びら--大貫商店(新丸子)  
 昭和13年、屋号「ちょうちんや」と呼ばれ、中原街道に面していた大貫商店です。
 看板に「提灯 雨傘 絵びら」と書かれているように毛筆が得意な主人が特技を生かした商売。
 写真に写る半纏を着た従業員を使って使用済みの俵を集めて漁場へ出荷する商売も兼業していました。大貫貞一さんは、もともと丸子の渡しの権利を下沼部村と上丸子村の二つの村と大貫さん個人との三者で所有する“三部持ち”をしていた人でもありました。



        昭和13年、大貫商店の店頭

 主人の大貫貞一さん(中央あごひげの人)が兵役を終えて帰宅したとき。貞一さんの左の男の子が次男の大貫照夫さん
 提供:大貫照夫さん(丸子通)


提灯、雨傘、絵びら

イラスト:石野英夫さん(井田中ノ町)

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