◆染色業--千年の紺屋(高津区千年) |
創業は江戸時代末期の慶應元年。通称「千年の紺屋」4代目の清水源助さん。
戦前の川崎市には染色業の紺屋は12軒もありましたが、殆どがクリーニング業に転業し昭和58年の本誌取材のとき現存していたのはこちらだけでした。“絵羽”という下絵や文字を書く型紙作りの職人、糯米からつくる糊作りの職人、どちらもいなくなりました。しかし、清水さんは両方の技術を持っていたのが強みでここまで続きました。
ごっつい指先、その爪はどれも薄黒く、厚く、短い。昔の洗剤は品質が悪く、まず爪をやられてしまうのだそうです。「一生、“色”で苦労していますよ」。清水源助さんはこう言って仕事の厳しさを笑い飛ばしました。
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創業時からの藍瓶(あいがめ)を掻き回す
清水源助さん
撮影:岩田忠利
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染めあげた布を天日で干します。
清水さんの作業場内には天然の清水の太い水道管から水が絶えず勢いよく流れ出ています。染めた布は何度も洗ってから張り場で天日で干します。
撮影:岩田忠利
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◆水上の飲食店--屋形船(上丸子山王町) |
◆チンドン一家--日の丸宣伝社(中丸子) |
昭和26年当時、小金井保雄家には屋形船がありました。
船内はお座敷が4畳、板の間が前後に2畳分ずつの広さで、座敷にはガラス戸がはいり、最高30人収容。屋形船には投網を打って魚を捕る“漁船子”という小舟が付きます。捕りたての魚を船の中でテンプラや刺し身にしてお客に供します。
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車に追われるようにして裏通りを行けば、子供たちが「あ、チンドン屋!」と駆けてきます。そう言えば、昔、私たちもチンドン屋さんのあとをどこまでもついて歩いた覚えがあります。
最近はすっかり見かけることが少なくなったこの仕事(本誌取材の昭和58年現在)、東京近辺ではもう30人ほどになっているそうです。 |

後方で竿を持つ人が船頭兼板前の小金井さん、右隣が料理を手伝う母親。丸子橋下流で
提供:小金井保雄さん(上丸子山王町)
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昭和58年、チンドン屋さんが街をゆく
カネと太鼓の「チンドン」を先頭に大売り出しの幟を立て、美女、3人の熱演です。
撮影:「とうよこ沿線」編集室
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◆電気店--井田無線(井田中ノ町) |
テレビ普及前の昭和31年8月、田んぼの中の自宅を改造して電気店を開きました。27歳のときでした。
今は店先の道路がよく渋滞するほどですが、写真の当時、周囲は一面の田んぼで、ドジョウがよく捕れました。うちの店が田んぼの中にぽつんと1軒、ちょうど水田に浮いているようでした。
その頃はテレビの普及前のラジオ全盛時代。店にはモノクロテレビが1台あるだけでした。それでも近所の人たちが今上天皇と美智子皇后の御成婚の模様を一目見ようと群がったのが昨日のことのようです、とは堀川清さんのお話です。
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昭和31年8月周囲は田んぼだった頃、現在の井田郵便局の隣に電気店「井田無線」が開店
提供:堀川清さん(井田中ノ町) |
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写真左の現在(2013.3.17)
撮影:岩田忠利
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◆農家の藁細工-−田辺延義家(井田中ノ町) |
昭和30年代まで農家では雨の日や冬場にワラを湿らし木槌で叩き、柔らかくしてから、さまざまなワラ製品を作りました。
今は水田が無く,稲は作らず、藁がありませんが、小学校社会科の勉強に藁細工の実演をたのまれ、子どもたちの前で公演する程度です。
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ゴザの代用や農作物の敷物として使った「ムシロ」を編む
提供: 田辺延義さん(井田中ノ町) |
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通学にも履いた「わら草履」作り |
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米や麦を入れる「俵」を織る
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◆酒造業--糀屋 岩崎商店(高津区溝口) |
糀屋岩ア酒店の創業者、岩崎次郎吉さんは明治初期の頃、溝の口村の家々を回って下駄の直しをする歯入れ職人でした。その彼がドブロク造りを始めた後、酒造業者の株を買い、糀屋岩ア酒店の看板をあげました。身を粉にして働き、一代で神奈川県下屈指の大酒造家となったのです。昭和17年、79歳で死去。
大山街道沿いのこの店舗と裏の醸造所は現在、糀屋ビル。1階は酒類の小売り店舗、2階が美術品展示のギャラリー、3階が糀ホール≠ナコンサートなどに利用され地域の文化活動の拠点となっています。
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大山街道に面した大正時代の岩崎酒店
提供:岩崎酒店(溝口) |
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◆米店--中村精米店(新丸子) |
大正15年、新丸子西口駅前にほど近い現在地で中村直吉・アキ夫妻で創業。
新丸子西口駅前はビルが林立していますが、丸子温泉の向かい側にある中村精米店だけは大正15年創業当時そのまま。
昭和の初め、ガラス戸に入れ替えたら通行人に大変珍しがられ、「ガラス戸って暖かいねえ、お天道様って不思議だねえ」と立ち寄る人が増えたとか。その当時、軒下に小川が流れていてドジョウやナマズを捕ってはよくおかずにし、朝食は直吉さんが毎朝シジミをとってから奥様が味噌汁を作ったという。
そうした新鮮小魚のおかげかどうか、お二人はいたってお元気。私がお会いした昭和58年当時、83歳の直吉さんは精米と配達のバリバリの現役。受話器を取るとすぐ自転車の荷台にお米を積んで走り出しました。
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新丸子で一番古いお米屋さん。店頭の二人は大正15年に創業した中村直吉・アキ夫妻。店も創業当時のまま
撮影(昭和58年9月):岩田忠利 |
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◆炭屋--鹿島燃料店(新橋) |
下小田中の鹿島進さんの伯父、3人は小学校を出ると新橋の燃料店「中澤屋商店」に丁稚奉公に入りました。そのうち次男は養子となりましたが、3人は揃ってそれぞれが「鹿島燃料店」の店名で東京で独立、成功しました。
下小田中の大戸神社の御影石の門柱はその兄弟3人が郷里への感謝の意味を込め寄進したものだそうです。
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炭俵を高く積んだ大正時代の初荷風景
中央紋付き袴は鹿島兄弟の奉公先の店主・中澤さん
提供:鹿島進さん(下小田中)
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◆ほうき作り--朝比奈箒店(木月) |
掃除機が殆ど毎戸に行き渡った現代も何のその、綱島街道の木月・稲荷橋を車で通ると、街道面の仕事場で箒づくりに精を出す朝比奈 保さんの姿が見られない日はありませんでした。それも戦後四十数年間、一日も欠かさず(昭和58年4月現在)……
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しかし、綱島街道の道路拡張を機に川崎市内ただ一人の箒作りの職人が消えました。
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十年一日のごとく箒作りに精を出す朝比奈保さん
撮影:「とうよこ沿線」編集室 |
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