校正:石川佐智子/ 編集支援:阿部匡宏/ 文・編集:岩田忠利

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NO.22 高津区南西部の町、時系列点描

       例の3億円があった竹やぶは、写真左の崖下


昭和16年、久末地区の入り口、鷹巣橋近く

 誰が建てたのか、「働かざる者は入るべからず」の木柱が建っています。
 提供:内藤伊勢治さん(下小田中)

  ここは前編No.21の蟹ヶ谷の高台から一気に下る通称「七曲がり」といわれる急坂です。また、この付近は川崎市高津区と横浜市港北区との市境、区境、町境が重なる地域。現在この道路は県道子母口・綱島線で綱島〜新城間のバスが通っている幹線道路です。

 写真左下は急勾配の崖下で竹林。ここで二十数年前、世間を騒がせた出来事がありました。「  現金3億円の札束をタケノコ掘りに行った焼鳥屋の主人が拾う!」という、まさに青天の霹靂のようなことがあった現場。
 他人の竹林に無断侵入しタケノコ掘りに行って現金3億円の大金を拾うとは、まさに濡れ手にアワ、労働に見合った正当な反対給付ではありませんね。木柱に書いてある警告どおり「働かざる者は入るべからず」。



写真左の場所“七曲がり”、現在(2013.3.17)
                 撮影:岩田忠利




























  昭和15年、久末の畑で篩分け

 篩(ふるい)の代わりに風を使って麦の穂を箕に入れ、殻やゴミを飛ばしています。
 条件や基準に合わないものを除外することを「篩い分け(ふるいわけ)」とか「ふるいにかける」と言いますが、この表現は、この農作業が語源です。
 提供:森昇さん(久末)













       昭和25年、良く働いた下山家の牛

                         提供:下山清さん(明津)


           牛の家出

下山家の牛は東京・大井町や川崎・日本鋼管辺りまで肥溜めを取りに、また田起こしや代かきに、じつに良く働きました。ある時、この牛が鋤を付けたまま“家出”してしまったのです。
 家族総出で近所を捜しましたが、見つからない。その日は田植えで一年で最も忙しい一日でした。下山家はこの牛を早朝4時から夜7時まで代かきに使ったのでした。
 「牛も酷使すると、怒ってストライキするんだなぁ」と家族がしきりに反省しているところに、近所の人が知らせてくれました。
 「井田の伊藤商事に牛がいる」。この店はプロパン屋さんです。重いボンベを積みによく通う、牛の“知り合い先”だったのです。



 昭和22年、秋元新次さん宅から望む蟹ヶ谷の中ノ町

右手後方は田中伊助さん宅、左手は西澤正雄さん宅の物置。
 提供:秋元新次さん(蟹ヶ谷)


      写真左と同方向の現在(2013.3.19)

 丘の斜面はマンション、平地は住宅で埋まりました。正面の丘の上は高台で中原区井田3丁目。ここには県立中原養護学校と市心身障害者リハビリテーション福祉センターがあります。
 撮影:岩田忠利



     昭和25年の夏、現在の矢上川・西ケア橋の所

 男の子のフンドシ姿、澄んだ水、波高く速く流れる川面…目に焼きついている子どもの頃の真夏が蘇る光景です。
 提供:森昇さん(久末)


昭和26年6月、久末の表耕地での田植え

提供:森昇さん(久末)


   昭和31年冬、藁で風除けをした庭先

 山から切り出した木の枝を蟹ヶ谷の秋元新次さんの奥様・洋子さんが燃料用の“そだ”にしています。左は長女・早苗ちゃん(3歳)です。
 提供:秋元新次さん(蟹ヶ谷)








 昭和32年、久末の表耕地でヘリコプターによる消毒
                              提供:森昇さん(久末)

 左下は久末市営住宅、後方は子母口です。ヘリコプターの操縦手の姿ははっきり見えるほどの低空飛行で久末住宅の上で農薬を散布しています。

 当時は、こんな有害な農薬を頭から振り掛けるようなことをしても誰も文句を言わなかったのですね。晩秋、某神社に筆者がうかがったとき、宮司が嘆いていました。「境内で落ち葉を燃やしても消防署に通報されます。今の時代は焚き火もできませんよ」。



         昭和33年7月、“我田引水”

 こちらは、良い意味の「我田引水」です。田んぼより低い所を流れる矢上川。その川の水をポンプで吸い上げ、田んぼに水を入れているところです。後方は久末市営住宅。
 提供:森昇さん(久末)





      昭和30年代、田植えの後のお茶うけ

      森有二さん宅の田植え。
提供:森昇さん(久末)

 京浜地区では田んぼで休憩するときに食べる行為を「お茶うけ」と言いますが、これはごく軽くタクアンか梅干しにお茶程度のものを口に入れます。
 農繁期とくに激しい労働の田植え時などは3度の食事のほかに数回の“間食”を摂ります。写真のようにお握りをほおばっているところからみると、これはお茶うけではなく、間食です。



 昭和40年、下山清さん宅の母屋建て替えの地鎮祭

 矢上川・橘橋たもと、後方の木は矢上川岸の桜並木です。
今の岸辺は桜は切られ、道から高さ1メートルほどのコンクリート壁になっています。
 提供:下山清さん(明津)







 
  昭和61年、“どんど焼き”の準備


 お正月の松飾りやしめ縄を持ち寄って、“どんど焼き”の準備の仕方を久末の子供たちに指導する森昇さん。
 提供:森昇さん(久末)

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