校正:石川佐智子/ 編集支援:阿部匡宏 /文・編集:岩田忠利

NO.21 森 昇さんの定点撮影の風景
久末・蟹ヶ谷・子母口・明津の地図

   久末の風景「楸谷、42年の歳月」
  


昭和33年(1958)、中原街道のバス停「山崎」から楸谷(ひさぎや)を望む

手前の後耕地(うしろこうち)の川は有馬川。中央の一軒家は文殊川昇さんの家です。



写真上の12年後、昭和45年(1970)、大規模な宅地造成が終わる


写真上から30年後、平成12年(2000)10月、平地は住宅で埋まりました。
                                  撮影:岩田忠利

昭和30年、蟹ヶ谷の風景「富士山の眺望」 
 


蟹ヶ谷(かにがや)の丘から晴れた日は富士山がよく見えました。

右下の棚田は、字名「城法谷(じょうほうや)」という所です。



写真上と同方向の風景、平成12年(2000)10月

蟹ヶ谷から50年前の子母口・武蔵新城方面
  


              昭和25年、蟹ヶ谷の丘から望む

 右手前の建物は日本海軍の通信基地、橘村短波受信所の建物の一部です。



  戦跡……旧海軍東京通信隊の橘村短波受信所

 上の写真のように蟹ヶ谷の丘は眺望絶佳、遮るものがなく、電波受信に最適な場所です。
 旧日本海軍は世界の情報を傍受するため、昭和5年、ここに敷地18.7ヘクタアールに22棟の建物、無線電信用の鉄塔6基,そして多くの電柱にアンテナを張り巡らしていました。ここで傍受した情報は海軍省にある通信隊本部と日吉の慶應大学キャンパスの地下壕内にあった海軍連合艦隊司令部へ送られていました。この写真は旧日本軍の情報最前線基地としての戦跡を次代に残す貴重な資料といわれています。



写真上と同方向から4年後、昭和29年、右下に県営子母口団地が完成。


写真上と同方向の眺め、平成12年(2000)  撮影:岩田忠利

昭和37年、久末小学校建設前の風景
 
    


手前左の木は天照皇大神のご神木。野川小学校以外に建物がありません。



写真上と同方向の平成12年(2000)

左手に久末小学校ができています。

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