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NO.11 へ

校正:石川佐智子/ 編集支援:阿部匡宏/ 文・編集:岩田忠利

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NO.10 多摩川、「丸子橋」とその周辺の情景


     昭和5年、砂利を運んだ帆かけ舟

 写真提供者・鴨下さんの父親・関根光次さん(世田谷区野毛)は、帆の書き文字が示すとおり「砂利光ちゃん」の愛称で呼ばれ、8隻の砂利舟の持ち主で、朝早く下流の六郷まで引き潮で下り、帰りは南風に乗って上流へ、という砂利運搬の日課でした。
 この写真は丸子橋開通の5年前です。右手に馬車や筏師(いかだし)が通る「筏道」という細い道がありました。これが現在の玉堤通りの前身です。右の森は田園調布の現多摩川台公園、写真左手に東横線の鉄橋が見えます。

 提供:鴨下行八さん(世田谷区野毛)


   昭和8年、工事中の初代丸子橋を川崎側から撮影

 写真提供者・青木作蔵さんは、錢高組のとび職人としてこの工事にたずさわりました。
 提供:青木作蔵さん(新丸子東








 昭和9年、初代丸子橋が工事中。河川敷では野球大会

 多摩川の主流の中に初代丸子橋の橋脚だけが左上に見え、左上には東横線の鉄橋が走る。中央向こう岸に浅間神社の森、その右手に連なる建物は大正14年12月開園の多摩川遊園地。手前のトロッコは堤防改修に使ったものです。
 提供:原 修一さん(小杉陣屋町


昭和10年5月11日、待望の丸子橋開通式

提供:羽田 猛さん(鶴見区矢向)




 昭和12年、右手東京側河川敷に“川の家”や売店が

 多摩川は昔から子供の格好の遊び場でした。丸子橋の上流の川崎側から東京側の岸辺を見ると、そこは水泳場。右手の河川敷に海の家ならぬ“川の家”や売店が並んでいます。
 提供 :宗澤文良さん(下小田中・安楽寺住職)








 昭和24年、上丸子幼稚園の園児たち

 わたしの上丸子幼稚園時代は大塚恵美子先生(旧姓山本。丸子山王日枝神社宮司・山本五郎さんの妹)が、お遊戯の時間といえば丸子橋の下で一緒にお歌を歌いながらお遊戯をしたものです。
 提供:藤嶋とみ子さん(中丸子)


  昭和18年の夏、中原青少年団上丸子分団の脱穀

 太平洋戦争が厳しくなり、食糧難時代に。青少年たちは小杉河川敷を開墾して野菜や穀類づくり。写真は麦の脱穀です。その売り上げは同分団運営費用に当てました。
 提供 :横山富美雄さん(上丸子八幡町)




昭和34年夏、アメリカ人が初の水上スキーを実演

 「雪の上ではなく、水面を人間が滑る?!」。初めての水上スキーに対岸の東京側もこちら川崎側も人で埋まっています。
 場所は東横線の鉄橋のやや上流。土手の上の道路は現在の多摩堤通りです。
 提供:島田 昇さん( 宮内)


   昭和38年夏、堤防は格好のお散歩コース

 左の道は現在の多摩川沿線道路。東横線の鉄橋に東急自動車学校の看板の一文字「普通車」の「普」がのぞいています。
 提供 :水島治良さん(上丸子天神町)


   写真左と同じ場所の現在(2013.3.17)

 東横線の鉄橋が高架になり、堤防上の道が自由通路に。いっそう快適なお散歩コースになりました。
 撮影:岩田忠利



  昭和39年、東急自動車学校の練習コース

場所は東横線の車窓からよく見える元日本ハム・野球グラウンドの周辺一帯です。ここは、.前記のNO.7のオートレース場だった所。
 写真中央のボンネットバスは順番待ちの待合室として使われ、学科は対岸の多摩川駅近くの自動車学校で学びました。現在の東急自動車学校は対岸の上流、世田谷区上野毛に移りました。
 提供:山田勇さん(田尻町)



 昭和38年7月、大盛況の東急多摩川ゴルフ練習場

 後方の対岸、沼部側にボートが接岸されています。東京側からゴルフ場に来られたようです。

 提供:山田勇さん(田尻町)






昭和27年8月2日、丸子橋下で夏の風物詩、燈ろう流し

提供:山本五郎さん(上丸子山王町。日枝神社宮司)









     昭和40年、皇族ご一行が丸子橋下に

 ご一行は丸子橋下で開催された日本赤十字・救難演習の模様を参観されるためにお見えになりました。昭和皇太后はまだお若くお元気、ご結婚6年目の美智子皇后がひときわ美しいですね。
 提供:水島治良さん(上丸子天神町)


京浜地区最大の花火大会だった丸子の花火

昭和42年8月、丸子橋下で小野滝蔵さん撮影

提供:小野基一さん(新丸子町)
大正14年からの丸子多摩川花火大会

 東京・京橋のアイスキャンデー屋「三河屋」の社長大竹幾次郎は、従業員の福利施設として多摩川岸に程近い場所に“丸子園”をつくりました。これが一般に開放したため都心の旦那衆や社用族に利用され大いに賑わいました。やがてその周囲に旅館、飲食店などが建ち並ぶ“新丸子三業地”に発展していったのでした。

 丸子の花火は、この社長が三河(愛知県)の出身であることから、三河の花火師をよび花火大会をひらきました。これが東横線開通の前年、大正14年のことです。
 東急、毎日新聞社、地元の協力で年ごとに人出は増えました。一時、戦争で中断しましたが、戦後復活し見物客30万人、東横沿線のみならず京浜地区最大の名物行事となりました。
 
 しかし車の往来が激しくなった昭和42年8月を最後に「丸子多摩川、大花火大会」はやむなく廃止するに至ったのです。


平成7年3月、初代丸子橋を撤去、右手に仮橋が完成

 初代丸子橋があった位置が正面です。架橋後60年が経ち、老朽化がひどく、片道1車線では増大する交通需要にも対応できないため2代目・丸子橋の架け替え工事中……。
 撮影:岩田忠利



    平成12年6月、完成した2代目丸子橋

         (東京都建設局東京第二建設事務所発行資料から)

 2代目丸子橋の新橋は、車道幅員が4車線で17メートル、歩道幅員が両側に4メートル付きの全長406メートル。アーチ形の景観イメージを残したスマートな橋に生まれ変わりました。