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校正:石川佐智子/ 編集支援:阿部匡宏/ 文・編集:岩田忠利

武蔵小杉・新丸子の地図


   中原街道がカギの手に直角に曲がる。それはナゼ?


大正12年(1923年)6月小杉御殿町1丁目の西明寺参道前から現武蔵小杉駅方面を望む
 提供:・安藤十四秋さん(小杉陣屋町)

 90年前の中原街道、西明寺前の十字路です。手前の広い道が中原街道で長さ約100メートル、その先は右へカギの手に大きくカーブして平塚市中原へと延びます。ここが「小杉御殿」の中心地。
 遠方に目をやると、一面の田畑。直線の細い道の先端左方向に武蔵小杉駅があるはずですが、まだ東横線も南武線も開通していません。道路右手のたんぼが現在の小杉御殿町2丁目、左手のたんぼが小杉町2丁目にあたります。左のたんぼの畦道に木が見えます。これは榛(そま)の木で、稲刈り後この木に竹を渡して掛け干しに使ったり燃料のマキにするために植えたものです。






    写真左の西明寺参道入り口前の現在

この道は写真左下で直角に曲がり、さらに後方に停車中の車の所で右に直角に曲がります。
 撮影:岩田忠利

  カギの手に直角に曲がるのは

 中原街道は江戸城の虎ノ門から西方に直進して多摩川の丸子の渡しを渡って1`ほどさらに真っすぐ進むと写真上の西明寺参道入り口に突き当ります。
 ここの右折して50b程の所に徳川2代将軍・秀忠が建てた“小杉御殿”がありました。この御殿を反幕府軍などの輩が攻めにくくするためその防御策として御殿の前の中原街道をカギの手に直角に曲がる難所をわざわざ造ったのです。
 実際に昭和20年代まで長い材木を積んだ荷車はどの車もこのカギの手の難所を通れず、たいへん困ったそうです。


1両の南武線の電車がグラウンド前駅(現在の武蔵小杉駅)に停車中。       提供:・安藤十四秋さん(小杉陣屋町)


 
左上に見える水道タンクは昭和13年に川崎市が東横電鉄鰍ノ売却、それを同社が撤去したのでそれ以前の撮影と思われます。
 駅前の池は南武線工事の土盛りのため土を掘り上げ、その跡が池となったもの。当時、南武線と東横線の駅舎は連結していない。右手の崖は東横線の線路の、“のり”の部分。駅の向こうに第一生命グラウンドの野球場のバックネットが見えます。



       昭和22年、写真左の池

 水面にアシが生え、周囲に木が茂っています。正面の建物は第一生命の倉庫です。
 提供:小野基一さん( 新丸子町)







  大正10年、多摩川の築堤工事用蒸気機関車

 蒸気機関車が現在の東急ゴルフ練習場付近を走る。当時はまだ東横線や丸子橋はありません。後方の森は現多摩川駅前の浅間神社。
 提供 :日吉隆豊さん(上丸子八幡町。大楽院住職)


       大正7年、丸子の渡船場

 川崎側から対岸の田園調布1丁目の浅間神社や多摩川台公園を望む。
 学生服姿の子は東京の都心部あたりの子、きもの姿は地元川崎の子のようです。
 提供:榎本幹雄さん(上丸子八幡町)




 大正7年、屋形船の中では鮎料理で舌鼓を打つ光景

 丸子の渡船場付近は、アユ漁の好適地。日本橋の旦那衆らがアユ漁を見ながら鮎料理を楽しむ光景がよく見られました。
 提供:榎本幹雄さん(上丸子八幡町)
      大正時代の多摩川

 33年前の本誌「『とうよこ沿線』創刊当時、大正時代の多摩川沿線で育ったお二人は当時をこう回顧した。

 「多摩川の東京側の河川敷ではウサギ、ウズラ、シギなどの狩猟ができました。もちろん、水は底が見えるほど澄み、アユが泳いでいるのがよく見えました」と東京側に生まれ育った斉藤正己さん(当時67歳。日吉在住)。

 「大正12年の関東大震災以後、東京はどんどんひらけました。そのためにも、多摩川の砂利は建築資材として大変重要でした。震災で焼け出された人たちが多摩川を渡って移り住み、随分家を建てるようになりました。
 当時は一面イモ畑で、地所も安かった。なにしろ、“丸子の渡し”で沼部に渡ると、池上の辺までずっとイモ畑、家なんかロクになかったから池上本門寺が一望できましたよ」
 小杉御殿町の原平八さん(当時71)は、こう話すのです。


 大正14年3月、中原尋常高等小学校全児童の朝礼
               提供:・安藤十四秋さん(小杉陣屋町)

明治6年に小学校令が発令され、同8年には各地で一斉に学校が建てられました。小杉地区は最初妙泉寺のそばに、次は西明寺の庫裏に移りました。
 明治18年には大谷戸、新城、小田中の学校は統一され、旭小学校(現大戸小学校)が新築され、明治35年、丸子、宮内、小杉の3学区が統一され、西明寺前に中原小学校ができました。
さらに大正10年、中原小学校と旭小学校を廃止し中原尋常高等小学校が現在地に新築され、旭小学校は分校となりました。その頃から高等科2年、尋常科6年となるのです。






 昭和6年、東口が無い新丸子駅提供:「とうよこ沿線」編集室

 右手が西口駅舎。当時はまだ武蔵小杉駅は無く、上り電車が元住吉駅から来るところですが、ホームにはただ一人の乗客。左下りホームから電車が元住吉駅へ向け発車します。

  新丸子駅西口駅前で不動産業を営む白井治郎吉さんの説明によれば、右の貨車の引き込み線は当時西口にあり、東横電鉄が古い多摩川の流れの跡を掘る“陸掘り”という砂利掘りを行い、これを小さな貨車に積み、ここで一度集結し、東京や横浜へ電動車でその貨車を運んだという。
 線路左手の小屋は、この引込み線で働く東横電鉄作業員の休憩所。当時の新丸子駅は西口だけで、左手現在の東口は写真のように一軒も家はなく、駅前には広々とした水田が広がっていました。



昭和7年、泣く子も黙る大杉、日枝神社の御神木

 樹齢600年。 根回り12.76メートル、高さ30.04メートルの巨木で、高層ビルのないその当時は遠く4里(16キロ)四方からその勇姿が見え、上丸子の目印となっていました。
 子供がいたずらすると「大杉の見えない遠い場所へやってしまうぞ!」と脅したとか。
 昭和9年、樹勢が弱って立ち枯れした伐採、今はその切り株が御神木となっています。
 提供:山本敬子さん(上丸子八幡町)



  昭和6年、丸子渡船場付近での水泳教室

 当時の中原小学校では授業の正課に“多摩川の水泳”がありました。どの子も日焼けして元気な子たちです。対岸は丸子の渡しの沼部渡船場。
 提供 :山本五郎さん(上丸子山王町・日枝神社宮司 )














      本田宗一郎ゆかりのオートレース場




昭和9年完成直前の競技場


オートレース競技場の観覧席の工事

 提供:菊地金次郎さん(等々力)





ホンダの創業者・本田宗一郎が初めてレースに出場したオートレース場


 多摩川の東横線の鉄橋から上流100mほどの川崎側の堤防を利用した観覧席とその下に内務省管理のオートレース競技場が昭和9年に完成しました。
 1周1キロの立派なものでしたが、日中戦争が日増しに激しくなり、短期間のうちにレースは廃止に。
 数年前、オートバイの専門雑誌の記者が私を訪ねて来たことがありました。ここで「世界のホンダ」の創業者・本田宗一郎が若い頃生まれて初めてオートレースに出場しハンドルを握った由緒ある競技場ということで、この写真2枚を借りに来たのでした。



  写真左の昭和9年完成の観覧席、現在(2013.3.17)

 79年後の現在も、長さ150bほどの見事な観覧席が残っていました。
 撮影:岩田忠利




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NO.7 大正、昭和初期の武蔵小杉・新丸子