校正:石川佐智子 / 編集支援:阿部匡宏 / 古写真収集・文・編集:岩田忠利

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NO.13 横浜大空襲から22年、神奈川地区

                  東神奈川熊野神社の秘話 その1



     台座に乗っていたころの狛犬

               絵:国見優太くん(小学校4年)

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    国見優太著「狛犬物語」

      「東神奈川熊野神社」の巻

 ここの狛犬は鶴見の石工の作

 熊野神社の狛犬は身の丈が1メートル60センチもある大きく、威風堂々とした立派なものだ。見るからに長年の風雪に耐えてきた風情を漂わせている。
  鶴見村の石工、飯島吉六が熊野神社の境内で大きな石を毎日コツコツ刻んで造りあげたのは嘉永6年(1853年)6月のこと。ペリーの黒船が浦賀に上陸し大騒ぎしている江戸時代。そもそも、狛犬というのは雌雄2匹で一対、完成当時は上の絵のように石組みの上の台座にのっていて、正面に「英気(気力があること)」と「威凛(凛然と輝く)」の文字が彫られていた。


 3度も台座から落ちた狛犬

 
安政2年(1855)10月2日の安政大地震、このときは片方の狛犬が台座から落ちた。機械も動力もない時代、多くの人たちの手でようやく元に戻した。
 こんどは大正12年9月の関東大地震、このときは地面が崩れ、もう一方が落ちてしまった。

 次は昭和20年5月29日の横浜大空襲。このとき熊野神社一帯は火の海と化し、焼け残ったのはこの狛犬だけだった。やがて敗戦……。9月の暑い日、進駐軍の接収が始まり、米兵が突然、熊野神社の鳥居の前までブルドーザーで乗り着け、狛犬を京浜急行の線路まで運び、土手に埋めてしまったのである。

 本殿が焼け、二ッ谷町の仮本殿前に移設

 幸い、狛犬の耳だけがわずかに土の中から出ていた。氏子の人たちがここを通るたびに手を合わせて拝む姿に胸を傷めた人たちがいた。
 建材店経営の岸野清太郎さんや鳶職・笹部林蔵さんら鳶のかしらたちがそれを掘り起こし、二ツ谷町の稲荷神社境内に建てた熊野神社仮本殿前に据えた。ようやく狛犬が元の場所に戻ったのは昭和35年米軍の接収解除、現在地に本殿が完成した昭和
38年のことだった。
 しかし2体の狛犬は体中、傷だらけ、無残な姿に変わり果てていた。




昭和28年、台座の無い狛犬

地中から掘り起こし二ッ谷町の仮本殿前に移設当時。

提供:高橋クリーニング店(平川町)

 見兼ねた老人、出現

 
この哀れな姿を見兼ねた老人が現れ、「あのボロボロの狛犬をわしに直させてください」と照本力宮司に申し出た。それ以来、毎日通ってコンクリートで復元する作業に精根を傾け見事に完成させた。この老練な左官、根門己之助さん、炎天下や寒風の中でのその作業が災いしたのか、2年半後、74歳で逝った。
            
               東神奈川熊野神社の秘話 その2
   


昭和40年撮影、樹齢400年ご神木のイチョウ

提供:照本 力さん(当神社宮司)

 
 二度の丸焼けに耐えたイチョウ

 

 境内のみこし倉の裏にそびえるイチョウは慶応4年(1868)の「神奈川の大火」、昭和205月の横浜大空襲と二度も丸焼けという大災害に遭いました。
 しかし、黒焦げになりながらも驚異的な生命力で生き返り、毎年秋にはイチョウの実をたわわに付けます。
 横浜市指定名木古木のこのイチョウは「火防(ひぶせ)のイチョウ」としてみんなから敬われています。

 詳しくは当サイト「名木古木」の「熊野神社イチョウ」をご覧ください。

 「神奈川神楽に程ヶ谷酢だこ」、ご存じ?

「神奈川かぐらに程ヶ谷すだこ」という言葉が戦前東神奈川地区にはあったそうです。人が集まると、神奈川の人は神楽を催し、程ヶ谷の人は酢ダコを食べるというタトエ。それほどこの辺りの人は神楽が大好きだったとか。

 今でも神奈川熊野神社には立派な神楽殿があります。ここで「説明つき神楽」が催され、大ヒットしました。手ぶり身ぶりのパントマイムで日本神話の25場面を演ずる。これを活弁士さながらにマイク片手に神官が説明。これがバカうけして、怒涛の如く見物人が押し寄せたとか。またこの神楽舞いが、地元の素人、農民・商人・職人のぶっつけ本番、稽古無しというからオドロキです。(岩田)

      横浜三大祭りは?

 

 戦前の横浜三大祭りといえば、6月の神奈川区青木町の洲崎大神の大祭(東白楽編に掲載)、8月の神奈川町の熊野権現の夏祭、9月の中区日枝町のお三の宮の大祭が定説です。

 当時の熊野権現の氏子は24か町、8000世帯をもつ郷社で、ほかに村社10社を支配下においていました。


 焦土から復興の神奈川



      昭和30年、焼土から復興する旧東海道、宮前通り

 左下の隅は第一国道。左上が青木橋。旧東海道の宮前通りは、右下から左手斜めに走る通りです。
 横浜大空襲で焼土と化した青木町が10年で逞しく復興する様子がうかがえます。
   提供:鈴木写真館(青木町) 


     昭和38年、市中央卸売市場のセリ

 競(せ)る人のしわがれた低い声、独特の抑揚、仲買人の手振り身ぶり、素人にはチンプンカンプンですが、それが市場の雰囲気を醸し出し、見ているだけで楽しいものでした。
電算化された今、この光景は見られない。
  提供:神奈川区役所


    昭和42年、国鉄東神奈川駅西口駅前

 道路は第二京浜国道、後方が鶴見方面。市電は左へ大きくカーブし、終点六角橋に向かいます。
 三菱ビルの隣地一帯は、約3000坪の東海金属工業の敷地で、ここが日本の「アルミ箔」発祥の地です。
 提供:神奈川大学




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